天がさだめし使命の果て


 ドルドーはよく死について口にする。私は死を目指して旅している、だの、目的が達成されるならばそれを恐れはしないだの、なんだのと。ついには、キュリオに自分のその後を任せるといった。
「私が死んだら、火葬にしてくれ。どうせ故郷には帰れぬ身だが、親しみのない湿った土の下で眠るのは嫌なんだ」
「もう、ドルドーってば。きみがそういうことになる前に、わたし自身がどうにかなってるよ。わたしはドルドーみたいに戦えないんだから。いままできみに護ってもらってきたけど、いつかきみでも護りきれなくなる」
「どうだか。私はおまえが逃げ出す方に賭けるよ」
 そんなことをいいながら、二人は旅の目的地であるスロヌム山の麓までやって来た。
「ほんとに一緒に来るつもりなのか?」
「言ったでしょ、きみの旅に最後まで付き合うって。それが終わったら、今度はわたしの旅に付き合ってもらうんだからね。賭けはきみの負けだよ、ドルドー」
「いつか逃げると思ったんだけどな」
「ふふん、キュリオちゃんはしつこいの。きみが思ってる以上にね」
 その内に火山を擁するキキム山脈の、一番高くもなければ大きくもない山のうちのひとつがスロヌム山だ。なんの変哲もない山だが、村人たちは入ろうとしない。ドルドーとキュリオが山に登るにはどうしたらいいのか、寂れた宿の主人に訊いたところ、返ってくるのは推し量るような一瞥だけだった。彼らは登るなとはいわなかった。だから、二人はこうして早朝こそこそと山裾までやって来た。キュリオが弾んだ声を上げる。
「なあんだ。ちゃんと道があるじゃない。崖みたいな斜面を登らされるんだったら、さすがにわたし、諦めたかもしれないよ」
「残念だ。道が無かったら、山頂までおまえのお守りをしなくて済んだかもしれないのに」
「そんなこといって、ドルドーだって上までよじ登るのは無理でしょ。翼もないんだし」
 山道は意外なほど綺麗に整えられていた。頻繁に人が使っている形跡がある。
「変なの。だれもなにも答えてくれなかったのに。もしかして、神聖な山だったりするのかな」
「さあな。私たちが山に登る理由をいわなかったから、なにも教えてくれなかっただけかもしれん」
 キュリオは道の端の刈られた草を杖でつついた。ドルドーは周りの風景に目もくれず、ただ前だけを見て進む。二人の疑問は、すぐに氷解することになった。
 木々の間から、人影が突然二人の目の前に飛び出してきた。
「うわっ?」
「ええっ! 人!?」
 キュリオは大げさに飛びのいた。ドルドーが腰に佩いた剣の柄にそっと触れる。現れた青年は目を白黒させた。
「女の子が二人で、こんなところでなにしてるんだ? 麓の村の子じゃないよね?」
「あはは、女の子って歳でもないけど! あ、おばさんって歳でもないよ。わたしたち、この先に用事があるの」
「貴様こそ何者だ」
「ちょっ、ちょっとドルドー!」
 青年は困惑して頭に手をやった。
「おれはきこりだよ。近くの山小屋に住んでるんだ。そっちこそ何者なんだよ? この先なんて、なんにもないぞ」
 キュリオはドルドーの顔を目の端で見た。ドルドーは相棒の躊躇いは意に介さず、青年だけを見て言った。
「この先になにもないなんて、よく言えるな。山頂にあるだろう、竜の巣が。私たちはその竜に用があってここまで来た」
「知ってるのか……! だけど、竜のお宝目当てならここで山を下りた方がいい。何百年も前から生きてるっていう竜だぜ? 竜だって長く生きてりゃそれだけ狡猾だろ。死にに行くようなもんだよ」
「そうだ。私は死にに行く。お宝の方にも用はあるが、命に代えてもその竜にとどめを刺しに来たんだ」
「君たちはなんでまたスロヌム山の竜の宝を狙う? もっと楽な冒険がほかにいくらでもあるだろう」
「あの竜のもとにある宝でなくては意味がない。あの竜は私の故郷の宝を奪い去った。それを取り戻し、死んだ同胞の仇を討つのが私の使命だ」
 青年は余計に困ってキュリオに顔を向けた。
「君も竜を殺しに行くのか? 彼女を止めないのか?」
「……ドルドーはわたしの命の恩人だから」
 キュリオは有無を言わさぬ笑顔を顔に広げた。青年はそれ以上尋ねることをやめたが、疑問の余地ない作り笑いでもあった。当のドルドーはため息をついた。
「ここまで付いて来るとわかっていたら、助けなかった」
「あーっ! またそういういじわる言うんだから!」
「で、なにか最近この山に異変はないか?」
「変わったこと……。そうだな、最近竜が飛んでるのを見ないかな。二、三年前からあんまり見かけなくなったよ。この季節だと、普段は巣にいないことが多いんだけど」
 キュリオは首をかしげた。ドルドーは顔を強張らせた。
「私たちはここまで来るのに手間取りすぎた。急ごう。情報感謝する」
 二人の娘と一人の青年は歩き出した。
「なぜ付いて来る?」
「おれも上まで行くんだよ。っていっても、四合目あたりまでだけど。山の中腹は木が少ない草原地帯だから」
「きみはなんでまた、この山できこりをしてるの? キキム山脈にはほかにもたくさん山があるじゃない」
「なんでだか知らないけど、スロヌム山で取れる木はほかの山に生える木よりよく燃えるんだよ」
「それも竜の影響なのかな」
「わからない。でも、そうかもね」
 あとは黙々と登った。頭上に枝を伸ばす針葉樹の葉の間隔が次第に広くなってゆく。木々が目に見えて少なくなってきたところで、青年は立ち止まった。
「おれはここで作業するよ。君たちは二人だけで、本当に行くつもりなのか?」
「もう決めたことなんだ。後には引けない」
 ドルドーはほんのすこし視線を外し、キュリオは無言で頷いた。青年は何と言葉をかけていいのかわからなかった。
「わたしたちが帰ってこなくても、きみのせいじゃないからね。誰が何と言おうと、わたしたちは上まで登る。どうしようもない馬鹿なの、わたしたち」
「私は馬鹿じゃない」
 キュリオは声を上げて笑った。
「下山するときは、ぜひおれの山小屋に寄ってくれよ。君たちが諦めて五体満足で顔を見せてくれることを願ってる」
「ありがとう。きみっていい奴だね!」
「達者でな」
 彼らは二人と一人に別れた。しばらくすると、木はまったく消え、辺りは背の低い草と岩ばかりになった。徐々に姿を見せ、いまではすっかり開けた青空が眩しい。道はもう消えていた。
「見て、綺麗だよ、ドルドー! いい景色だよ」
 キュリオは断崖の際に立って腕を大きく広げた。遠くまで広大な大地が見渡せる。風は冷たいが、空気は澄みきって湧水のような味がする。
「昨日泊まった村が、ほら、あんなに小さいよ!」
「それどころか、おまえが食事にけちつけて給仕と喧嘩して追い出された宿のある町まで見える」
「それって結構前のことだよね。あれがそうなの? 随分遠くまで来たんだねえ」
 ドルドーも旅の連れと並び崖のぎりぎりに立って、遠方の小さな点を指さした。晴れ渡る景色を味わうと、キュリオは上を仰ぎ見た。頭上の山肌は白く霞んでいる。竜の影はない。
「なんだかこの山も結構登って来たんじゃない? あとひと踏ん張りだね」
「キュリオ、山登ったことないだろ」
「たしかにそうだよ。なんで?」
「これから辛くなるぞ」
 果たしてそのとおりになった。
 それから短い休憩を挟みながら登ったが、日が傾くころにはキュリオはくたくただった。体は重く、足は言うことを聞かず、息が上がって顔が火照った。
「もう歩けないよ……」
「今日はここでキャンプを張るか」
 ドルドーが言い終わるか終らないかのうちに、キュリオは足元に力なく倒れ込んだ。弱々しく泣き言をいう。
「痛い……」
「そりゃそうだろ。そんな石がごろごろある地面に倒れるから。ほら、火を起こすから手伝え」
「寝たい……」
「凍死するぞ」
 渋々体を起こしたキュリオは、すがるように支えにした長い杖の先を集めた小枝に近付ける。うわごとのように不自然な抑揚の言葉をいくつか唱えると、杖の先に嵌めこまれた琥珀に似た石が光を放って、枝に火が点いた。
「いつの間に枝なんて集めたの」
「おまえがだらだら歩いてる間にだよ」
 ドルドーが鍋を火にかける。キュリオは丸めた毛布の上に腰を下ろした。
「そういえば、ドルドー、あのきこりにも宝がなんなのか言わなかったね。いいかげん教えてよ」
「もっと上まで登ったら教える。門外不出の宝なんだ。そう易々と口に出せるか」
「だって、ここまで一緒に来たのに。わたし、そんなに信用ない?」
「違う。おまえがそんなことは知らないまま、普通に生きてくれればいいのに。私は最後までそう願ってるんだ」
 ドルドーはひび割れた声でそういうと、鍋を見つめて笑った。
「ごめん、きみが思うようにはわたしは生きられないよ。わたしだって決めたんだ」
「そうだったな」
 キュリオは普段から八の字型の眉をさらに困らせて、足元を見た。二人の視線は噛みあわない。
「それが、わたしが仲間たちにできる唯一のことだから。きみだってそうでしょ」
「ああ。だが、私の故郷は現実に存在する。汚れた海を渡った以上、私がこの足で帰れないだけで。跡形もないおまえとは違う」
「狭量な信仰だよね、きみの島は。外の人間はおろか、一度外に出た同国人も国に入れないなんて。きみは英雄じゃないの? わざわざここまで使命を果たしに来たきみが、故郷に帰れないなんておかしいよ」
「それが、私たちの信じることだから、私は納得している。覚悟の上だ」
鍋に皮袋から水を入れ、乾燥して縮んだ肉の欠片をお湯に入れて戻す。村で買い入れた野菜もナイフで適当に切りながら鍋の中に落としていく。そして、匂いの強い香辛料をどかどかと投入する。香辛料の段になって、キュリオは顔をしかめた。
「今日は伝統のスープの再現だ。島の食料は手に入らないから、いつも通り再現にすぎないが」
「またそのスープ? ドルドーの料理は辛すぎるんだよ」
「温まるぞ」
「一口でいいかな。わたしには村で買ったくるみパンがあるから」
「おまえは甘いものばかり食べすぎる」
 食事をそれぞれ取ると、あたりが暗くならないうちに岩の陰に簡単なテントを張る。長い夜を交代に見張りに起きながら二人は過ごした。ドルドーは眠りに落ちるのと同じくらいすぐに頭をはっきりさせて意識を保ちながら、キュリオは半分寝ながら見張りをした。
 見張りについていたドルドーは夜が明けていくのを眺めていた。陽光の筋が黒い地面を桃色に切り開いていく。すっかり明るくなると、ドルドーは物音を立てないように支度を始めた。鍋と皮袋に水を汲みに行って戻ってきたとき、起きていなかったはずのキュリオがもぞもぞ動いていた。
「おはよぉ、ドルドー」
「おはよう。まだ寝ててよかったのに」
「寝てたら置いてくでしょ。うう、寒いねぇ」
「湯を沸かす。おまえは早く服を着こめ。よく眠れたか?」
 ドルドーは鍋を燻る火の上に置いた。寝つきが悪いのと同じくらい目覚めの悪いキュリオはおぼつかない手つきで上着を羽織る。
「寝られるわけないよ、こんな数時間ごとに起こされるところで。風の音はうるさいし」
「こんなときくらい、ぐっすり寝ればいいのに」
「寝ようと思っただけで眠れたら苦労ないよ」
 キュリオが顔を洗っている間に、ドルドーは荷物を詰めた。相棒が気づかないうちに、自分の背嚢に荷物を多く詰め込む。それでも、キュリオは重そうに背嚢を背負った。
「さあ、さっさと出発だ」
 二人はパンをかじりながら歩き出した。太陽が次第に周囲を暖めて、真上にさしかかったころ、二人は柵と出会った。
 この道もない草原の前方に、細く錆びた鉄の柵が突如として現れたのだ。それは、山を囲むように作られているらしく、右も左も大地が消えるところまで柵も共に続いている。二人は首をかしげた。
「なんだろう、あれ」
「見えないのか? 柵だろう」
「それはわかるよ。でも、なんのために?」
「不可解だな。こんなところに人が住んでいるとも思えないのに」
 近づいてみると、柵は背が高いキュリオの胸元まであった。杖で叩くと鈍く高い悲鳴がした。
「これじゃあ乗り越えていくのは無理そうだよ。第一、こんな細い柵じゃ体に刺さっちゃう」
「曲げたり折ったりできないだろうか。おまえの魔法で?」
「わたしは本職じゃないから知らないよ……。ドルドーこそできないの?」
「やってみなければわかるまい」
 ドルドーは剣を引き抜いた。刀身に太陽が反射する。剣に当たって跳ね返った日の光が柵を射る。ドルドーはその部分に切りかかった。
 剣の切っ先が鉄をこすってぎりぎりとわめいた。柵の上げる悲鳴は谷間にこだまして、大地を揺さぶる。柵自身も震えていた。
「なななななにこれ!?」
「なにかの封印なんだろうか」
 柵が震え、のたうち、地面から半身を引き上げる。まっすぐな柵は驚くほど柔らかく曲がって筒状になり、ぐるぐる回った。次第に筒の全体が錆びた鉄の色になり、一方の端が二人の顔の前にやってくると、それはふたつの灯りを光らせて威嚇した。柵は蛇に変化していた。
「なにこれ……! いったい、だれがこんな魔法を……」
「竜に出会う前に大蛇に阻まれるとはな。羽は生えてないか?」
「なさそうだよ。うん、見当たらない。竜の亜種じゃないってことだよね。それとも、竜の子供はみんなこうなのかな」
「そんなことがあってたまるか。おまえは下がっていろ。吹っ飛ばされるぞ」
 ドルドーがそう言ってすぐに、蛇が頭を地面に叩きつけた。ドルドーはすばやく横に飛び退いたが、キュリオは衝撃を受けて後方に吹き飛ばされた。
「いてて。言うのが遅いよ、ドルドー」
「ぼーっとしているからだろう」
 尻餅をついたまま文句を言うキュリオを振り返りもせずに、ドルドーは眼前の敵から目を離さないで答える。
「ちがうよ! 観察してたの!」
「そうか。なら、弱点は見当がつくか?」
「どうかな、全身硬そうだし。いつものやつじゃない?」
「いつものやつか」
 平坦ななまりを含んだ抑揚でドルドーはそう呟くと、口角をおもむろに吊り上げた。目の前の蛇に向かって剣を構えると、大蛇が口を大きく開けて襲いかかる。牙が触れる寸前にドルドーは飛び上がり、見事に蛇の頭の上に着地する。
「生物の基本的な弱点は、心臓、頭、首と、そして両の目」
 振り上げた剣が太陽の鼓舞を受けて輝く。剣の中央に彫られた文字が光る。ドルドーは暗唱するように呟いて、蛇の目の玉に剣を根元まで突き刺した。
 蛇は断末魔の悲鳴を上げて崩れ落ち、こんどこそ動かなくなった。ドルドーは剣を振ってこびりついたどす黒い血を飛ばし、軽々と飛び降りる。
「お腹もじゃないの? あと、静脈のあるところとか」
「そうだったな。硬いやつばかり相手にするから忘れてたよ」
 二人は蛇を越えて再び山を登った。しばらく歩くと、今度は地面に雪がちらほら目につくようになった。下から見上げて白く見えたのはこれだった。上に登れば登るほど、白い面積が増える。次第に歩きにくくなるのと比例して、二人の口数も減っていった。
 真上まで昇った太陽が晴れ渡った空から斜面を見下ろす。光線が雪に反射して眩しい。ドルドーはどうにか杖を支えにしながらついて来るキュリオを何度も振り返った。まだ雪が積もっていない草原を見つけると、彼女は言った。
「昼にするか。腹が減っただろう」
「お腹空くっていうか……もう、くたくただよ……!」
「そんなに荷物が重いか?」
「荷物が重いっていうより、身体が重いよ。頭もくらくらする」
「太ったんじゃないのか? そんなに甘いものばかり食べるから」
「太ってないよ! こんな重労働して太るわけないでしょ!」
 キュリオはへたりこんだ。荷物を力なくその場に下ろす。
「さて、飯を食う前に私は周りを見てくる。頂上にたどり着くまでのルートも慎重に選ばなければならないだろう。おまえはそこで休んでいればいい」
「えっ! ドルドーが行くならわたしも行くよ!」
 キュリオは慌てて立ち上がった。荷物を風に落ちないように、半ば岩陰に隠すように奥へと押しやった。そして、ドルドーは剣と皮袋を、キュリオは杖と背嚢にぶらさげていたお守りを携えて、辺りを見て回った。
 ドルドーは立ち止まって考え込んでいた。気が付くとキュリオの姿がない。まさか落ちたのではないかと斜面を覗き込む。それらしき姿も跡もなかったことに安堵したところで、声をかけられた。不意を突かれてドルドーが下に落ちるところだった。
「なにやってるの?」
「おまえな……。驚くだろうが、急に話しかけたら」
 ドルドーが眉根を寄せて体勢を整える。キュリオはそれを意に介さず、後ろ手に隠していたものを嬉しそうに見せた。
「見て見て! これ、お昼ご飯に食べよう!」
 途端にドルドーの顔が曇る。キュリオは心底嬉しそうに、片手に抱えたふたつの卵を見せつけた。
「ドルドーって、わたしに甘いもの食べすぎとかいろいろ言うくせに、卵はダメだよねー! 栄養たっぷりなのに!」
「味をえり好みして食べないわけじゃない! っていうか、そんなでかいの、どこで拾ってきた?」
「そっちのほうに巣があったよ。普通の鳥って、つがいで卵の世話をすると思うんだけど、不用心なことに留守だったんだよー」
「不用心も何も、こんな山の上ではほかに卵を捕る敵もいないんだろう」
「上には竜がいるからねえ。あ、でも竜は卵は食べないのかな?」
 二人は荷物を置いた場所に戻ろうとした。浮足立つキュリオの背中を苦々しい目付きで追うドルドーは、遠くの空から向かってくるなにかに気が付いた。
「なにかこっちに来てないか?」
「え? この卵の親かな? 巣はあっちだったよ」
「いや、こっちに一直線に飛んでくるぞ!」
 キュリオの指し示す指先とドルドーが確認した方向が食い違う。ドルドーは意味もなく走った。その後ろをはるかに遅いスピードでキュリオが追いかける。二人の逃走も空しく、巨大な鳥はキュリオのすぐ後ろまで一気にはばたいた。キュリオは息も切れ切れにドルドーを呼んだ。
「た、助けて、ドルドー!」
「無理だ! 私には翼あるものは斬れない!」
「なんでさー!?」
「私の……私たちの宝とは、竜の卵だからだ!!」
 ドルドーの声が谷間にこだました。怪鳥の爪がキュリオの背をかすめる。危機一髪でその爪をかわしたそのとき、抱えた卵がひとつ、腕からすり抜けた。鶏卵の倍はある黒い卵は、雪をまばらに散らした岩肌に当たって、あっけなく割れて砕け散る。辺りに濃い黄色の黄身が広がった。翼の巻き起こした強風がキュリオの背を舐めて行った。
「だから、さっさとその卵をあの鳥に返してやれ!」
「ごめん、ドルドー。もう手遅れみたい……」
 ドルドーは振り返ると、即座に惨状を理解した。一度二人から離れた怪鳥は、今度こそ確実に仕留めようと派手な色の飾り羽を見せびらかして、キュリオの上空を旋回している。どうすることもできなくて周囲をうろうろするキュリオに、ドルドーは叫びかけた。
「おまえの得意な魔法でなんとかしろ!」
「得意じゃないってばー!」
 震える声で叫び返す空元気はあるらしい。乾いた笑い声がドルドーの耳に届いた。
「あの顔に付ける変なお守りを使え! 仕方ない。私が囮を引き受ける!」
 ドルドーは剣を抜くと、それを頭の上で振り回しながらキュリオのもとへ駆け寄った。斜面を走っているとは思えない速度に驚いて思わず避けたキュリオのすれすれを通り過ぎる。怪鳥は首を伸ばして、激しく動き回るドルドーに狙いを定めた。
「変なお守りじゃなくって、トゥルレムのゴーグルだって! 当時の魔法技術の傑作なんだから」
 キュリオは文句を言いながら、杖に巻き付けたお守りを外した。ゴーグルのレンズの部分を目に合わせて、革紐を頭の後ろで縛る。
 そのあいだにも、ドルドーは上空から付け狙う鳥を挑発しつつ逃げていた。しかし、怪鳥の進む速度は速い。ドルドーは巨大な嘴が落ちてくる音に振り返ったが、避けきれず、やむなく剣を盾の代わりにして攻撃を受け止めた。刃に嘴が当たった鋭い音が響く。鳥は長い首ごと、先の曲がった嘴を振った。剣がドルドーの手を離れて飛んでゆく。幸い、崖の下に落ちることはなく、剣は近くの岩に引っかかった。ドルドーが慌てて体勢を立て直し、剣の落下地点まで必死に走り出す。怪鳥も大きく羽ばたいてそのあとを追う。巻き起こす風がドルドーのマントを捲り上げた。
 キュリオはレンズの横に付いた調節バーをあれこれいじった。すると、前方に見える怪鳥の体が緑色の炎に包まれた。炎は現実のものでなく、ゴーグルによる作用でそう見えるだけのものだ。だが、これでは見えすぎだ。裸眼よりも幾分褐色がかった視界の中で、キュリオはなおもゴーグルを調節した。
 ドルドーはまだ怪鳥に追いつかれてはいなかった。右に左に、何度も転びかけながら、怒り狂った敵の攻撃をかわして走る。ようやく剣のもとにたどり着いて、愛おしげにそれを拾い上げた。怪鳥のほうへと向き直り、同時に振り下ろされた爪を剣で防ぐ。白い息を荒く吐いて、ドルドーは鳥の両目を睨んだ。鳥の目の光もドルドーの目を捉える。両者は睨み合った。力ではドルドーが負けている。剣を握る両手が震えはじめた。
 突然、怪鳥は鋭い声を上げて、ドルドーから身を離した。翼が剣にぶつかり、ドルドーが尻餅をつく。ドルドーは首だけを後ろにめぐらした。杖を手に、トゥルレムのゴーグルを身に着け、怪鳥を正面から見据えているのはキュリオだ。いつも助けている相手に救われて、ドルドーは薄い笑みをもらした。
「鳥なんかに負けるかよ! わたしは……わたしは、竜と対話を果たしに行くんだ」
 キュリオは敵に隙を与えずに、もう一度杖を大きく振った。爆発のような音と、見えないなにかが怪鳥の首に当たって羽毛に衝撃が広がる様子が見て取れる。キュリオの目には、鳥の弱点が見えていた。ゴーグルは人の目では見えない魔力を見えるようにするためのものだ。そして、魔力は生命力に深く結びついている。キュリオがしたのは、自身の胸に燃える炎を杖の宝石に灯して、それを力いっぱい敵の弱点に投げつけることだった。
 怪鳥が身をよじらせる。キュリオはだめ押しとばかりに、もう一発魔法をぶつける。上空の鳥は羽ばたく力を失ったのか、見えない攻撃にあえいで崖の下へ落ちて行った。キュリオはそれを見届けると、へたり込んだままのドルドーに歩み寄って手を差し出した。ドルドーは横目で差し出された手のひらを見て、抜き身の剣を支えに身を起こす。
「あー、もう、ドルドー! そんなことしたら刃が駄目になるよ。普段からこの剣は私の誇りだ〜、とかなんとか言ってるくせに」
「おまえの手を借りずとも一人で立ち上がれる。……それよりも、あの鳥は大丈夫なのか? 本当に落ちたのか?」
 キュリオはゴーグルを外して、再び杖に巻き付けた。
「大丈夫だよ。そうとう弱ってたみたいだから。死んでなくても飛んではこれない。やれやれ、お昼ご飯もまだなのに、とんだ目にあったね」
「やれやれはこっちの台詞だ」
 巻き込まれた形のドルドーは、キュリオの足元の卵を見てあからさまに顔をしかめた。
 荷物を置いた岩陰に腰を下ろして、それぞれが昼食の支度をした。キュリオは手の中の卵をまじまじと見つめて、いったん頭の隅に追いやっていた疑問を思い出した。
「そういえば、ドルドー、竜の卵がきみたちの宝ってどういうことなの?」
「私の故郷の聖なる山に、遠い昔、竜がやってきて卵を産んだ。私たちは山と共にその竜を崇めた。汚れた海を渡らずに島の外を行き来できるものはすべて私たちの信仰対象だが、竜はその中でも最も偉大な生物だからだ。しかし、竜は、我々の神にするには凶暴すぎた。幾度も竜の気まぐれで里を焼かせておくわけにもいかず、祖先は聖なる山に侵入し、竜を殺した。卵は孵らなかった。それからは、私たちは卵だけを崇めていた」
「そりゃ、ほかの竜に卵を持って行かれるのもわかるよ」
「私たちの島は狭すぎて、竜と共に生きていくことはできなかった。仕方のないことだ」
「で、その卵を見つけ出したらどうするの?」
「破壊する」
 ドルドーはあっさり言い放った。
「万が一にも、卵を孵らせてはいけない。もしそんなことになったら、世界の脅威をひとつ増やすことになる。止めなければ」
「そんなもんかねえ」
 キュリオはいまいち納得していない顔で、熱した鍋に怪鳥の卵を割り入れた。
「そのために、わざわざ故郷の山で鍛えたこの剣を持ってここまで来たんだ。卵の親を殺した剣を作った一族に伝わる製法で鍛えられたものなんだぞ」
「その剣、軽いよね。わたしでも持てるんだよ。本当に竜が斬れるの? ドルドーはとても名剣を扱ってると思えない杜撰さだし」
「重い剣だけが良い剣じゃないだろう」
 その後は何事もなく、二人は昼食を終えてまた歩き出した。そして、日が傾きだした頃、上が張り出して洞窟のようになった岩棚に、二人は腰を落ち着けた。昨晩よりも明らかにかわす言葉少なく、夕食を終える。毛皮をかけた上に分厚い毛布にくるまったドルドーに、キュリオが声をかけた。
「ねえ、ドルドー。明日には竜の巣まで辿り着くかな」
「ああ、たぶん」
「もう、こんな高いところまで来ちゃったんだねえ」
「そうだな。おまえがいなかったら、私はここまで来られなかっただろう」
 唐突な言葉にキュリオは心底驚いた。
「ちょっと、なにいってるのドルドー! しんみりしちゃうじゃない」
「本当のことだ。キュリオがいなかったら、私の剣は志半ばで折れていた」
「……それはわたしもだよ。ドルドーがいなかったら、わたしの杖はきっと折れてた。わたしの二本の足と杖だけじゃ、大図書館の倒れた司書たちみんなとわたしの使命は重すぎて背負いきれない」
「使命ね」
 ドルドーは笑みを浮かべた。キュリオは口をとがらせてドルドーに視線を向けた。
「そう、わたしの使命だもん。いまはなにもわからないけど、きっと竜の使う言語を探り当てて、意思の疎通を成し遂げてみせる」
「あれは巨大なトカゲだ。そんな脳みそがあるものか」
「崇めてたんじゃないの?」
「竜自体を信仰していたのは、過去のことだ。それも、私が生まれる何世代も前の。おまえこそ、何故そう断言できる?」
「過去の大魔術師、トゥルレムは竜と親しく、言葉を交わすことができたといわれてる。その言葉を記したものは残っていないけど。だけど、かつて竜は世界で一番美しくて賢い生き物だったって、わたしたちはみんな知ってる。竜の言語を探し出すことだって、不可能ではないはずだよ」
 つい熱くなるキュリオに、ドルドーは言葉を返さなかった。ぼんやりした笑顔だけが返ってくる。ドルドーが眠りかけているのに気が付いて、キュリオは静かに尋ねた。眠りと現実の狭間で意識が混濁した状態だと、ドルドーが普段より素直なことを知ってのことだった。
「ねえ、ドルドー。わたし、ずっと邪魔じゃなかった? 本当に一緒にいてよかった?」
「なにを……言い出すのかと……。さっき、言っただろう。おまえが居て、よかったよ」
 絞り出した声はそう告げるとすぐに、寝息に変わった。
 翌朝早くに二人は出発した。次第に冷たく鋭くなる風を防ぐために、二人は毛皮をマントの上から羽織った。温暖な気候で育ったうえ革鎧を纏った軽装のドルドーより、着込んだキュリオのほうが寒そうにしていた。
 二人は疲労が抜けきらない体に鞭打ちながら、険しい道のりを進んだ。雲が集まり始めた空を見上げて、ドルドーは悪態をついた。
「いま、なんて言ったの?」
「なんでもない。なんだか曇ってきたな」
「本当だ。雪、降るかな?」
「降ったら先に進めない」
「どうしよう。ここにいても、どうにもならないよね。一旦下りて、雲が行くのを待とうか?」
「……いや、私には時間がない。晴れるように祈っていてくれ」
 彼らは足を速めた。とうとう山頂にたどり着いたのは、昼過ぎだった。天気は良くも悪くもなっていない。相変わらず、太陽を雲が隠している。
 ごうごういう音が辺りを満たしていた。トゥルレムのゴーグルを身に着けてしばらくあちこち見回したキュリオは、戻ってくるとささやいた。
「竜は寝てるよ」
「そうだろうな。ここにいても寝息が聞こえるんだから、それくらいは私にもわかる」
「すごい大きいの。雪よりも白くて、つやつやしてて、すっごく綺麗。金銀財宝もいっぱいだし。……ドルドーの故郷を襲って、わたしの大図書館を燃やした竜に間違いないよ」
 感激に上ずった声にそぐわない最後の言葉に、ドルドーは眉をしかめた。
「本気で対話を試みるつもりか? 仇討ちなら、おまえの代わりに喜んで引き受けるのに」
「ごめんね」
 キュリオはうつむいて無理に笑顔を作った。ドルドーは空を仰ぎ見た。雲が晴れる様子はまだない。
「なんだか行きたくなくなってきたな」
 キュリオははっとして顔を上げた。ドルドーもキュリオと似たような笑みを顔に張り付けている。山を登る支えだった杖の柄を握りしめた。
「そうだね。いっそのこと、二人で逃げてしまおうか。どこか遠くへ、世界を置き去りにして」
 珍しくドルドーがこぼした弱音に驚きながら普段のように茶化さずに、そう応じる。小さな笑い声を立てて、キュリオはドルドーのほうに向き直った。
「疲れたね」
「そうだな」
 ドルドーも笑顔のまま、キュリオを見つめる。二人はお互いの瞳の中に同じ色を見て取った。先に口を開いたのはドルドーだった。
「……だが、過去は置いては行けないし、私は故郷を捨てられない」
「やっぱり、きみはそう言うんだ」
「キュリオも同じだろう」
「……そうだよ」
 それ以上は二人とも後ろ向きな言葉はなにも口にしなかった。いよいよ、この竜の座する天地の狭間での決戦だった。
 ドルドーとキュリオは二手に分かれた。竜の背後、ドルドーがいままで身を隠していた岩に、キュリオが登る。ドルドーは反対側に回って竜の正面に歩を進めた。
 ドルドーは足音を忍ばせて歩いた。岩の向こうに宝の上に寝そべる白い巨体が見える。ドルドーには、それが美しいとは到底思えない。暴力的な怪物。一目見ただけで人間以上の力を持った、圧倒的な存在だとわかる。こんなものに襲われたら、我々はなすすべなくこの生物の前にひれ伏して慈悲を乞い、神々に祈ることしかできない。邪教の神のようだとドルドーは思う。自分より上の存在への生理的な嫌悪を感じて、顔をゆがめた。白い竜は醜悪で見るからに邪悪として目に映った。
 竜の頭が見えたとき、寝息は立てていても、その片目が開いていることに気が付いて、ドルドーは体中の血という血が凍りつくかのような錯覚がした。竜の目はまっすぐドルドーを射抜いていた。捕食される側の恐怖に金縛りになりそうだった。だがそうなる前に、里が襲われたとき上から火を吐き見下ろした瞳がいまドルドーを見出した瞳に重なり、胸のうちから怒りが燃え上がって呪縛を解いた。
「私はドルドー。ワヤスタルドよりわれらの宝を奪い返しに来た! 悪しき竜よ、わが剣の一閃を受けよ!」
 ドルドーは勢いよく剣を抜いた。竜の両目が開かれる。鈍く光る剣を見て取ると、竜は人が怒ったときのように眉間にしわを寄せて剣を睨み付け、唸りながら身を起こした。低い唸りと、身体から巣に落下する財宝の音で足元の地面が震えた。
 竜が火を吹く。ドルドーは襲い掛かる炎を剣で払いのける。火は立ち消え、竜はますます鼻息を荒くして、硬い爪のついた前脚を振り上げた。
「ムル・シャルンシルシャン! デワラクスロイセソ! ポルーグ・ポレライオレオルド・クルセナ!」
 岩の上から、ちんぷんかんぷんなわめき声が聞こえた。キュリオがめちゃくちゃな呪文を唱えている。
「おまえは早く卵を探せ!」
「わかったよ! でも、竜がどれかの言語のあいさつに反応するかどうかも見させてよ!」
 一瞬気が逸れた竜の足に、ドルドーが剣を振り下ろす。とてつもなく硬い衝撃に腕がしびれた。長い尾がその巨体に似合わない速度でドルドーに向かってくる。剣士は身軽に飛び退いた。
 前脚が煌めく宝の山の中で卵を探すキュリオに伸びる。ドルドーがそれを阻止しようと斬りかかるが、後ろ足がドルドーを蹴り飛ばす。ドルドーは少し離れた地面に背中を強打した。
「キュリオ!」
「ど、ドルドー!」
 ドルドーが立ち上がり再び竜に挑むまで、キュリオが応戦をする。そんなふうにして、二人はかわるがわる戦った。竜との戦いも、卵の捜索も思うようにはかどらない。二人とも何度も打ち倒され、身体の至るところから血をにじませながら、まだ動いていた。時間が経てば経つほどドルドーの姿がぼろぼろになってゆくのに、未だ卵を見つけられなくてキュリオは煌びやかに光る宝の上に座り込んだ。
「見つからないよ、ドルドー」
「絶対にある! 宝石やら金の延べ棒やら、どうでもいいものは山の下に捨てでも探してくれ!」
 盾も持たずに人の何倍もある竜へと向かって駆けだしながら、ドルドーは叫んだ。トゥルレムのゴーグルを持ってしても見つからない探し物にどうしようもなく苛立って、キュリオは近くの金色に光る食器を山の下へ蹴飛ばした。二本の白く曲がった角をドルドーに向かって振り立てていた竜が、こちらに顔を回した。
「えっ?」
 キュリオと竜の目が合う。いや、竜の瞳はその先を凝視していた。キュリオも後ろを振り向く。
 蹴飛ばした食器の中にあった大きな黄金の杯から、黒く焼け焦げた楕円形が転がり出る。
「そいつだ! キュリオ、早く壊せ!」
 どうにか竜の気を引きとめようと、ドルドーがやたらめったら竜に剣を打ち込みながら叫ぶ。竜はうるさそうにドルドーを尾で払った。ドルドーが弾き飛ばされ、離れた場所に転がる。しかし、キュリオはそれを見ていなかった。
 崖の下に転がろうとする卵に慌てて手を伸ばす。指先が触れて、懸命に指と手のひらを使って、どうにか卵を手にした。それは表面に細かいひびが張り巡らされた真っ黒な卵で、キュリオの手のひら一杯分の大きさだった。それは生命の躍動を持たず、トゥルレムのゴーグルのレンズを通しても、ただの黒い塊にしか見えない。なぜこれをこの竜が後生大事に守っていたのだろうと思ってふと顔を上げると、至近距離に宙に浮かぶ竜の姿があった。
 ぐえ、とよくわからない声が出る。竜の爛々と光る瞳の中に、青く燃える炎が見えた。一身に熱い火を浴びることになると本能で悟った。焦げ臭い竜の口が迫る。濡れた鋭い牙が口の奥まで見渡せた。
「キュリオ! こっちに寄越せ!」
 聞こえたものが言葉だとは思わなかった。全身麻痺したようで、風の音と早鐘を打つ自らの鼓動だけが耳の中で鳴っていた。呼んだドルドーのほうをぎこちなく向いたのは、もうすぐ死ぬと思ったからだった。だが、ドルドーはなにやら剣も持たないで手を振っている。その行動に疑問を感じたとき、頭を殴られるような衝撃で、目の前に文字が現れた。キュリオが普段から使い、この付近でも用いられる言語。それはキュリオを呼び、卵を渡せと言っている。ドルドーが発した言葉がゴーグルの前で魔法として目の前に姿を現したのだ。文字通り、目に見える姿で。その意味にキュリオが気が付いたのと、竜が鼻から大きく息を吸い込んだのは同時だった。
「飛んでけえ!」
 キュリオは大きく腕を振って卵をドルドーに向かって投げた。そして、急いでしゃがむと、キュリオの上を熱が飛んで行った。
 ドルドーはひらりと跳んで投げられた卵を手にすると、すぐさま横に避けた。青い炎が舐めるようにドルドーの元いた場所を焼いた。ドルドーのマントは焼き焦げて短くなっていた。しつこく消えずに大地を焼く青い炎の中に、ドルドーは卵を落とした。
 卵はじゅうじゅうと音を立てて、付近の炎の色を青から赤へ、オレンジから黄色へと変えた。ぱきぱき殻が砕ける音がして、黒い表面が崩れ落ちた。中から出てきたのは鈍い白をした宝石だった。しかし、真珠のように光るそれが、ただの宝石でないことをドルドーは知っていた。卵の形のまま丸いそれは呼吸していた。ドルドーは生まれたばかりで柔らかくぬめった小さな竜に、剣を突き立てた。
 ドルドーは何度目かの衝撃を受けて吹き飛んだ。背後の岩に、頭と背中を叩きつける。はたかれたときに爪がかすった横腹の傷からどす黒い血が流れる。咳き込んで吐き出した鮮血と対照的だった。すでに竜は猛り狂っていた。所構わず炎を吐き出し、竜の守る財宝も焼けていた。ドルドーは笑った。故郷の宝を悪しき竜の悪しき影響から救いだし、もう誰にも奪われない地へと送り込んだ。同族の仇のことはもう頭になかった。竜の仔を殺したことがすでに仇になったはずだ。空は竜の怒りに呼応するように黒い雲を深めていたが、ドルドーは満足していた。
「危ない! ドルドー!」
 炎の向こう側でキュリオが叫ぶ。二人の目が合った。煤にまみれてぼろぼろになった長身の相棒がドルドーの無事を願っている。ドルドーは知らず知らずのうちに左の腰を探った。剣がない。仔竜を殺したまま、そこに残してきてしまった。
 竜は迫っている。炎のように色を変える、赤い両目がドルドーをとらえた。立ち上がりもしないまま、辺りは新しい炎に塗りつぶされた。
「これでもくらえ!」
 なにかが火の中に投げ込まれた。すると、一帯の炎が掻き消えて、一本の道が現れた。厚い雲が割れ、炎より赤く燃える太陽が薄雲を纏って顔を出す。その中をキュリオが懸命に薄い空気を吸いながらドルドーのほうへと走ってくる。普段重力に従ったままの太い三つ編みがキュリオの後ろから、宙に弾みながらついてくる。投げ込まれたのはトゥルレムのゴーグルだった。火にさらされ、レンズは割れて突然作られた道の真ん中に佇んでいる。
 キュリオはよろめきながら剣を抜くと、ドルドーに向かって思いきり投げた。
「届いて! お願い!」
 竜は、ドルドーの目が竜でなく空中の剣に向けられているのに気が付いて、横目で後方を見やった。火の中に立ち荒く息をするキュリオを見て、目を見開いていた。
「イ・トゥルレム」
 竜の口から絞り出された声はしわがれて、何千年も立ち続ける神木のような手触りだった。キュリオの耳には確かに届いた。竜が塔作りの大魔術師の名を口にするのを。それは話者も途絶え、魔法使いの呪文にだけ残る古い言葉だった。だから、キュリオにはトゥルレムの名しかわからなかった。
 キュリオが驚いて声も出ないなか、ドルドーは力を振り絞って落ちてくる剣を握った。その気配に竜が再びドルドーに向き直った。薄雲にも切れ目ができて、太陽がついにその姿を現す。掲げられた剣は赤い光を浴びて輝いた。中央に彫られた故郷の文字に光線が注ぎ込まれ、満たされて、鋭く強い光を放った。
「これで終わりだ、竜よ、天に還れ!」
 ドルドーは艶めく黒髪が波打たせ、竜に打ちかかった。剣は本来硬いはずの竜の胸部、鱗と鱗の間を貫いた。竜は口を開いたまま力を失い、岩の上に長い首を横たえた。岩に背をもたれさせて、竜の巨体が作る陰の中でドルドーは大きく息をついた。
「ドルドー!」
 キュリオが駆け寄ってくる。それを見て、ドルドーはなぜ、戦えもしない元司書をここまで連れてきたのかに気が付いた。私は私の故郷に使命を果たしたと伝える手段を持たないが、それでも誰かに私が生きた証を見届けて欲しかったんだ、そう口の中で呟くと、傷の痛みも忘れて愉快な気がした。
「ドルドー!」
 息を呑むキュリオの声がした。近寄ったキュリオは、大きな透き通った竜の爪がドルドーの胸元に食い込んでいるのを見て取った。ドルドーは血まみれで、どこからが彼女の血でどこまでが返り血だかもわからない。手を取って泣きながら覗き込むキュリオに、ドルドーは薄く目を開いて微笑みかけた。
「いや! ドルドー! 置いて行かないで!」
 視界がどんどん狭くなるなか、泣きじゃくるキュリオを宥めようと、ドルドーは口を開いた。吐き出される言葉は、無意識に彼女の故郷の言葉だった。トゥルレムのゴーグルを失ったキュリオには、当然その意味がわからない。
「なに、なんて言ってるの? ドルドー、教えてよ!」
 それから、キュリオは一晩中泣き続けた。いつの間にか泣き疲れて眠ったが、すぐに目を覚ました。あれだけ大地を舐めつくした炎は消えて、山頂全体が黒ずんでいる。寒くなって短い睡眠から起こされたのだ。世界は朝だった。ドルドーは冷たいままだった。
 乾いた涙でうまく開かないまぶたのまま、おぼつかない足取りで崖の縁まで進んだ。空は晴れ渡って雲ひとつなく、朝焼けにキキム山脈の山々が燃えていた。見渡せる限り一面が赤く染まった絶景を見ていると、新たに涙が湧き出てきた。
「……ねえ、ドルドー、綺麗だよ。世界はこんなに綺麗だよ」
 遠くで鳴き声がした。空に目を凝らすと、黒いシルエットが飛んでいた。鳥にしては大きい。尖った翼から、竜だとわかって釘付けになった。竜が首を巡らしこちらを見た。逆光でその顔がよくわからないながら、見つめられているのを感じた。しばらく竜はそのまま宙で羽ばたくと、また一声、鳴き声を上げて飛んで行った。弔いの声のようだった。
 キュリオは命ある限り歩きつづけなくてはならないことを直感していた。スロヌム山の山頂で、これからの運命が決定された音を聞いていた。

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