はじまりの街


 彼らは幌馬車に乗って街にやってきた。街の名は、はじまりの街。野心に燃える領主がこの街を造り上げたが、彼は生涯領主より立場が上がることはなかった。ここには、街の名にあやかってなにかを始めようという旅行者が数多く訪れるが、その多くが志半ばで挫け、成功したものがいたとしても、はじまりの街に帰ってきて街の名を真実にしたことはない。
 ましてや、彼らがなにかのはじまりを作るということは、ありそうもなかった。彼らは音楽家なのだ。
「名前なんかに頼るような奴が、なにか成し遂げられるとは思わんね」
「おれたちは成し遂げちゃうかもしんないけどなー」
「どーだか。そもそも、俺たちはここが目的地だろ」
 馬車の中に、二人の青年が座っている。端正な顔に似合わない甲高い声をしたシュレルが、腕組みをして鼻で笑った。頭に布を巻いた小柄なノイゼルは屈託なく笑う。
「案外、新たな時代を作るかもしれませんよ。私たちが」
「かもよ」
 二頭の馬を操りながら、ガラガラ声のラスピュイルが頷く。同じく御者台に腰掛けて、しかし眺めているだけの、分厚いマントを着こんだ中性的なカノルは、言葉少なに同調した。
 彼ら四人、側面にでかでかとゴビル楽団と書かれた馬車で騒々しくやってきた四人は、別になにかを成し遂げる決意をするためにやってきたのではなかった。一年間、国中をまわって演奏をして、ついにここまで辿り着いたのだった。
 馬車が砂利道を曲がるたびに、馬車に積まれた大小さまざまな太鼓が音を立てた。ノイゼルの腕に嵌められた、細い錫でできた大量の腕輪がぶつかりあって金属音を奏でる。この二種類の音の間でノイゼルの指がリズムを刻む。
「うるさい。ちょっとはじっとしろ」
 堪えきれず、シュレルは眉間に皺を寄せて止めにかかった。
「新しい曲、作ろうぜ! 新しい街に来たんだし」
「演奏会で弾く曲はもう決まってる。お前は少しは落ち着け」
「だって旅の終点だぜ? 落ち着いてられねーって! おまえも吹けよ」
 ノイゼルは近くに投げ出されていたシュレルの荷物から短い横笛を取ると、投げてよこした。シュレルは不服そうに受け取ったが、口をつけたときには、口の端をゆがめて微笑していた。
 馬車の生み出すリズムにノイゼルがまたリズムを加えて、シュレルが即興で旋律を作り出す。二人の音楽が辺りを満たした。彼らのほかに音はなく、彼らの音楽が静寂を支配していた。
「ちょっと、この曲いいな!」
「そう思うなら、あとでちゃんと楽譜に直しとけ。歌えよ、カノル」
 シュレルは御者台を振り返った。カノルは困った様子で首を横に振った。
「日の出てるうちは歌わない」
「カノルを加入させたときに言ったじゃないですか。昼間は歌えないって。それに、あなた好みの歌詞でないと怒るでしょう」
「相変わらずノリの悪い奴だな。仕方ない、ラスピュイルが入れ」
「じゃあ、馬をお願いしますね、カノル」
 大男は手綱をカノルに手渡すと荷台のほうに移動した。馬など操った経験のないカノルは戸惑ってラスピュイルのほうをちらちら振り返った。
「ずっとラスピュイルの隣で見てただろ? できるって!」
 ノイゼルがいい加減に励ます。ラスピュイルは二人の間に胡坐をかいた。彼が大柄なせいで妙に小さく見える竪琴を肩に寄せて構え、ひとつふたつ、音をはじく。
 馬車が道の端を踏んで、音を立てて揺れた。指示がないので馬が勝手な方向に走り出そうとする。馬は速度を増し、荷台はガタゴトいいながら何度も上下左右に揺すぶられた。
「おい、なんとかしろ!」
「馬車が暴走してちゃ、音楽どころじゃねーな。カノル、おれが代わるよ」
 カノルは振り返ってラスピュイルを睨みつけた。ラスピュイルはとぼけた顔で肩をすくめた。
「そんなに歌ってほしいのなら、歌ってやる」
 御者台の上で立ち上がると、胸の前で手を組んでカノルは歌い始めた。異国の歌手は良く通る声で異国の言葉を綴る。意味は分からないながら心弾まずにはいられないような歌だった。カノルは二頭の馬に語りかけていた。馬は彼女の言葉を理解したのか、速度を落として道の真ん中に戻り、急な曲がり角もいともやすやすと曲がった。ノイゼルが叩いたリズムが戻ってきた。
「何度見ても気味が悪いな、あいつが歌うのは」
 シュレルが呆れた顔でいった。カーブを曲がるたびに、三人の肩が馬車と共に拍子を刻んだ。
「でも、おまえにはカノルが要る。だろ? 魔術的なとこはあるけど、純粋に歌は上手いと思うよ。うん、世界で二番目に上手いくらい」
「演奏会、成功するといいですね」
「成功? 優勝間違いなしだぜ、俺たちならな。せっかく、勝利の歌姫が俺たちのために、歌ってくれるんだ。さあ、伴奏をつけてやろうじゃないか」
 各々が自らの楽器を奏で始める。歌声と楽器の音色が混ざり合い、溶け合い、ひとつの音楽を編み上げた。ノイゼルの刻むリズムはぶれることなく、常に主旋律を担当するシュレルはカノルの様子を窺いながら、歌にずばり嵌るメロディーを紡ぎだす。ラスピュイルは歌を引き立たせる音を探して奏でる。何度も同じ節を繰り返し歌う、軽快なテンポの簡単な歌だったが、演奏によってもっと豊かに感じられた。馬車は音楽を受けて楽しげに揺れた。彼らの息はぴったりだった。
 時折すれ違う馬車や旅人がぎょっとした表情で、ゴビル楽団の馬車を見る。御者は手綱も持たずにただ歌うだけで進んでいるのだ。歌の力で走る魔法の馬車に見えるだろう。街門が近くなってきたのか、すれ違う人々も増えてきた。
 何度、同じフレーズを繰り返しただろうか。突然、カノルの集中力が途切れた。次の言葉が喉に引っ掛かり、不快な音が喉の奥から引き絞られ、カノルは力が抜けて尻餅をついた。調和は一瞬で崩壊し、驚いて慌てふためく馬で、馬車は再び大きく揺れた。街道を飛び出して林に全力疾走しかけた馬たちを、急いでラスピュイルがなだめる。馬を走らせる気力が尽きたのと、手慣れたラスピュイルが御者役を代わってくれたことに安堵して、カノルは大きく息をついた。
「題名をつけるとしたら、砂利道の歌だな! 大元のリズムは馬車の揺れだからさ」
「題名をつけるとしても、絶対お前には任せねえからな。センスがないのを自覚しろよ」
 二人とも、集中の糸が途切れたことで、急に疲れを感じていた。シュレルが御者台のほうに顔を出す。
「夜に歌うのとそう変わらんから安心しろ」
「うそ。全然だめ」
 カノルは悔しそうに後ろにもたれかかった。
「歌で物を動かせとは言わん。それに、演奏会は夜だ。お前は俺の言ったとおりに歌っていればいい。楽器は楽器らしくしとけ」
「おまえはもっと優しくできんのかねぇ」
「あなたにとっては楽器でも、私たちの秘密兵器ですよ。あまり無理をさせないでくださいね」
「今日はお前も加担しただろうが。いい子ぶりやがって」
 そうでした、とおどけるラスピュイルの脇腹に、カノルが力なく肘を入れる。
「まっ、演奏会は明日だろ? それまでゆっくり休めばいいよ! 今日は疲れさせてごめんなー」
「どうせ、飯食ったらいつも回復すんだろ。宿に着いたら練習するからな」
「えー!!」
 シュレル以外の三人から不満の声がもれる。口数少ないカノルでさえも、小さなうめき声で不満を訴えた。
「明日にしましょうよ」
「そーだよ! 腹いっぱい食ってさっさと寝ようぜ!」
「うるせー! リーダーは俺だぞ。言うことを聞け!」
 声が甲高いせいで凄んでも迫力が出ないが、シュレルは大真面目に声を荒げた。
「さすがに練習なしで出場は無理だ。狙うのは優勝なんだからな! これまで練習してきたんだから、今日したって同じことだろうが。ここまで来たのを無駄にするつもりか!」
「だって、毎回毎回おんなじ曲演奏させられるの飽きるんだよー」
「偉そうな口をきくのは、一発で決めてみせてからにしろ。だからいつまでも兄貴のすねかじってるっていわれんだろ」
「あ?」
 普段は笑ってばかりいるノイゼルが真顔でシュレルと睨みあった時、ラスピュイルが声を上げた。
「街が見えてきましたよ! はじまりの街が! 支度をしてください、さあ、カノルも」
 シュレルとノイゼルは同時に荷台から顔を出した。カノルもゆっくりと頭をもたげた。夕日に染まる、大きくはないけれど小奇麗な街並みが、次第に近づいてきた。
「やっぱり、新しい街が見える瞬間ってわくわくするよな!」
「ああ。俺たちがこの街をもっとわくわくさせてやろうぜ。俺たちの音楽で!」
「おうよ!」
「あの、支度を……」
 対立は忘れ去られた。三人は街門をくぐるまで、新しい街を見つめ続けた。

 街は人でいっぱいだった。宿の部屋を取ったら、まずは食事にしようということになった。階下の薄暗い酒場にはすでに人々がひしめいていた。ノイゼルは麦酒を運んできた給仕に声をかけた。
「すごい人だね。いっつもこんなに混んでんの?」
「いやあ、明日は街の領主様の奥方様が開くっていう演奏会があるもんで、賑わってるってわけなんですよ。もうここ何日か、演奏会に出るらしい楽士たちが夜中まで飲んで歌って騒いでましてね。こちとら、しばらくは歌なんぞ聞きたかないですね」
「へー、普段はお上品な客が多いんだ。それに比べりゃ、おれたちは野蛮人かもな!」
「お客さんも演奏会に出るくちで……? へえ、そりゃ失礼しました」
 給仕はやれやれとでもいうように頭を振ると、次の卓へそそくさと向かった。四人にそれぞれマグが行き渡ると、卓上に沈黙が横たわった。三人がシュレルを無言で見つめる。
「……なんだよ」
「いや、あるでしょ、乾杯の音頭とか」
「これまでの旅路のねぎらいですとか」
「わたしたちへの感謝とか」
 シュレルの整った顔が心底いやそうな表情に歪んだ。
「そんなに嫌がらなくてもいいじゃないですか」
「やだ。俺は口下手なんだ」
「どこが口下手だよ! おまえは性格が悪いだけだろーに」
「うるせぇ! とっとと飲むぞ、めんどくせーな!」
「乾杯しなきゃ飲めねーよ。そういうのをやるのもリーダーの仕事のうちだろ」
 しぶしぶながら、シュレルが折れた。わざとらしく咳払いをして、マグを掲げる。
「仕方ない。別にいつもと変わらんからな。優勝するぞ!」
「おう!」
 よっつのビヤマグが鈍い音を立ててぶつかった。そのままよく冷えた麦酒を流し込む。喉が歓喜に打ち震えた。
「あーっ! 新しい街で一番に飲む酒は最高だぜ! もう一杯!」
「味わって飲めよ、お前はもっと」
 隣で飲んでいた男たちの一人が彼らに声をかけた。薄汚れたマントを羽織った姿で、明らかに旅慣れた吟遊詩人だと分かった。
「おまえたち、今日この街に来たのか? 明日の演奏会に出るために?」
「そうだよ」
「ここにいるのは、みんな演奏会に出る連中なんだぜ。まっ、仲良くしようや」
 男はじろじろと四人を見た。品定めでもしているつもりなのだろう。差し出された手には、人の好い笑みを浮かべたノイゼルが応じた。
「よろしくなー」
「さっき、優勝するっていってたな。いやに自信があるじゃねえか。国中の楽士が集まってるんだぜ」
「あんたらは優勝狙って来てるんじゃないのか?」
「まあな。優勝すりゃあ、奥方お付きの詩人として遊んで暮らせるんだからな。だが、おまえたちほど過信しちゃあいないぜ。強者揃いって知ってるからな。そんな謙虚なおれたちに、おまえたちの実力、見せてくれよ。よっぽど上手いんだろうな?」
 ノイゼルは困ってシュレルに目線をやった。男たちは馬鹿にしてにやにや笑いながら彼らを眺めている。
「どうする、リーダー?」
「いいんじゃないか。舐められるのは気にくわん。こっちが喧嘩を売るより先に、向こうから売られたのも癪だが……買ってやろうぜ」
 シュレルの一声で、ラスピュイルは慌てて残った麦酒を飲み干した。カノルはちゃんとした食事が後回しになりそうなことに、げんなりした表情を見せた。とはいえ、気力はほとんど回復していた。
「おおい、身の程知らずの新参者が一曲披露してくれるらしいぞ!」
 男が辺りに呼びかけると、好奇の目が一斉に彼らに向けられた。演奏を待ってささやき声で話し合う者もいれば、大声で囃し立てる者もいる。喧騒にあまり変わりはなかった。
「なにをやる? 太鼓は部屋に置いて来ちゃったぜ」
「私も竪琴は部屋にあります。取りに戻りましょうか?」
「いや、いい。俺はさっきの横笛を持ってる。お前らは歌え。ノリのいい曲でこのいけ好かない雰囲気をぶっ壊してやる」
「となると、狩人の朝か?」
「そうだ」
「よーし!」
 ノイゼルは年季の入った木造の椅子の上に立ち上がった。手を打って注目を集める。シュレルは観客の相手を全部ノイゼルに丸投げして、懐から取り出した横笛をいじっていた。
「どうもどうも、はじめまして! おれたち、ゴビル楽団っていいます」
「いいから、はじめろー!」
「楽団っつうわりには、四人しかいねえじゃねえか」
 野次が飛ぶ。笑いが起こる。ノイゼルも同調して笑い、続けた。
「ほんとはもっとメンバーがいたんですけど、各地をまわってる間に喧嘩別れしたり、ついていけないって脱落したり、稼いだ金を持ち逃げされたりしましてね、あはは! じゃ、お言葉に甘えて、はじめさせてもらいます」
 ノイゼルは滑り落ちるようにして椅子に収まると、長年使われ続けて角がすり減った木のテーブルを握りこぶしで叩き始めた。一連の拍子が繰り返しに入ると、ラスピュイルとカノルもそれに加わった。テーブルが奏でるリズムが観客の頭に浸み込んだ頃、ようやくシュレルの笛がメロディーを奏で出した。
 テーブルを叩く三人がそろって歌い始める。
「狩人の朝は まだ早い まだ早い いまはまだ夢を見るとき しこたま飲んだ、その酒を 腹の中で蕩かすとき」
 酒場はざわついた。貴人の傍らで奏でるのを生業とする詩人たちから、戸惑いの声がいくつも挙がった。もっと身分の低い、酒場や道端で歌って小銭を稼ぐのが常のものたちは大笑いした。
「これは、子どもに聞かせる民謡じゃないか!」
「こんな奴らが、美しきカントール奥方の御前に出るのか?」
「こいつら、なんだって酒場でわらべ歌なんぞ歌いやがる?」
「ぎゃはは! 少なくとも俺らはこいつらよりゃましだぜ!」
 少しのずれさえなく揃った、テーブルを叩く音が部屋中の蝋燭の火を揺すった。三人の歌声は折り重なって酒場の隅から隅まで響き渡った。
 頭に響くリズムに不思議と心動かされて、罵るものも笑うものも、あるものは連れと話しながら、手にした杯を一緒になってテーブルに叩きつけ出した。その多くは、突然拍子を取り出した自身の手に驚いていた。彼らはまったく、一緒になって歌に加わるつもりなど微塵もなかったのだ。
 そのわらべ歌を幼いころに聞いて育ったものたちは、自然と続く歌詞が口から零れた。気が付くと、酒場中が歌に参加していた。
「狩人の朝は まだ早い まだ早い 夢の女がささやくが 狩り支度終えた王様は いまかいまかと待っている」
 大合唱は酒場にとどまらず、宿屋全体を揺らし始めたかのように思えた。歌に、あるいはテーブルを叩くのに、参加しないものは酒場に一人とてなく、異様な熱気に包まれていた。シュレルとノイゼルも瞳が熱に溶かされ、この熱気の渦に飲みこまれたように見うけられた。
「狩人の朝は もう遅い もう遅い 昇る朝日に目を焼かれ 慌てて寝床を抜け出せば 怒った王様追い立てる 今日は狩人が狩られる身」
「今日は狩人が狩られる身」
 カノルは歌の最後を繰り返して歌った。最後の音が引き延ばされて震える。歓声やらなにやら、わからない、言葉のない声だけのどよめきが酒場を包んだ。これで歌に仕えさせられていた大勢が、解放されるかと思われた。一人の男がなにやら騒いで振り上げたビヤマグから、そこに残っていた酒が、隣の卓の男に零れた。当然、酒をかけられたほうは、かけたほうの胸倉をつかむ。お互いの仲間たちがにらみ合う。はじめは小突きあいだったが、ついには殴り合いの喧嘩になった。仲間たちは止めるどころか加勢した。
「まさか、あんな歌に乗せられるとはなあ。どんな手をつかったんだか皆目見当がつかんよ」
 歌うようにけしかけた男が、シュレルたちに笑いかけた。この男が媚を売ろうとするのを見て取って、血が昂ぶっているシュレルは冷笑した。
「お前に教えるとでも思ったか? へぼ詩人に興味はないぜ」
 男はシュレルの嘲笑よりも、初めて近い距離で耳にした場違いなキンキン声に、半ば呆れ半ば噴きだした。
「なんだぁ、その声……? ふざけてるのか?」
「わかったら、とっとと消えろよ。お前が俺の声を笑う前に、お前を笑ってやったぞ。笑われる前に笑ってやるのが俺の信条なんだ。特に、雑魚相手にはな」
 シュレルが言い終わらないうちに、拳が飛んできた。彼はそれに喜び勇んで応戦する。見れば、部屋中で小競り合いが起きていた。罵り合い、邪魔な椅子を蹴り倒す音が、先程まで合唱で満ち満ちていた酒場に溢れる。じきに部屋中で乱闘になるのは明らかだった。ノイゼルも、知らない相手となにやら揉めている。
 立ち上がった大勢の合間を縫って、軽蔑した表情の給仕が唯一座る者のいる席に料理を運んでくる。串に刺して焼いた肉の匂いも、酒と歌で我を失くす男たちを鎮めることはなかった。
 ラスピュイルとカノルが腹を満たすころには、部屋中すでに乱闘になっていた。老いも若きも、身分の貴賤も関係なしに、二人を除いた全員が目の前の相手を傷つけることで頭がいっぱいだった。
 二人が部屋に戻ろうと立ち上がったとき、傍にいた男が投げ倒されテーブルに激突して、テーブルは酒場の端へ滑っていった。そのテーブルに当たった男がまた怒声を張り上げる。
「こんなところに長居は無用です。シュレルとノイゼルはひとまず放っておくとして、早く出ましょう」
 カノルはうなずく。二人が酒場の扉をくぐろうとしたその時、ラスピュイルの腕が後ろから掴まれた。
「ちょっと、手伝ってくれよ、ラスピュイル」
 腕を掴んだのは、すでにあちこち打ち身を作ったノイゼルだった。ラスピュイルは困り果てた。
「私はもう休もうと思うのですが……」
「助けてくれって! このままじゃ、シュレルが明日使い物にならなくなっちまうよ。加勢してくれよー」
 この大男、縦にも横にも大きく、頭を剃り上げた厳つい風采だったが、怪力さもさることながら、それと同じくらい繊細な作業が得意だった。本人も力仕事より細やかな仕事を好んでいた。見かけによらず平和的な男だった。
 一方、シュレルは細い体で果敢に相手を殴ろうとするが、やられてばかりな姿が人ごみの奥の方に窺えた。
「なんであなた方は、喧嘩が弱いのにすぐに殴りあおうとするんですかねえ」
「おれたちがもめごと大好きなのは、おまえらを加入させたときから知ってるはずだろ! ほらほら、われらがリーダーさまを救い出してくださいよー。まったく、あいつ、なんのためにここまで来たんだとか説教垂れたくせに。もう今日は練習なしだな」
 ノイゼルはぶつくさいいながら、ラスピュイルを引っ張って人の群れに割り入っていく。ラスピュイルは争い事は好きではないが、シュレルを助けるためといわれると拒否もできずに、ノイゼルに引きずられるようにして連れられていった。
 カノルは争う人々の中に二人が消えるのを見守ると、階段を上がって寝に行った。

 それからほどなくして、三人の男たちは部屋に戻ってきた。シュレルとノイゼルは、扉を開けるとそのままベッドに突っ伏した。
「あーあ、つかれたあー」
「ベッドを血で汚す前に、手当させてくださいよ」
「手ひどくやられたの?」
 横になっていたカノルが起き上がった。暗闇の中で、火打箱を探し出しランプに火をつける。
「二の腕を切られた。野郎、ナイフなんぞ持ち出してきやがった」
「血は出てますが、かすり傷ですよ」
「それくらいで大げさすぎなんだよなー」
「俺の腕が使えなくなったら、どうするんだよ! 人類の損失だぞ」
「だから、それが大げさなんだって」
 ランプの灯りに照らされて、シュレルの姿が浮かび上がった。薄い唇の端が切れて鼻血の跡もあった。喧嘩が一番弱いのにすぐに喧嘩を売ろうとするシュレルは、結局二人に助け出されては誰よりも怪我をしているのが常だった。
「大丈夫、明日の朝には全部治ってますよ」
「これ、いつもの」
 カノルはラスピュイルが薬草を煮て作った軟膏を出した。受け取ったシュレルは不服そうに痛む箇所に塗っていく。黒いベストと麻のシャツをめくると、白い腹にもいくつものあざができていた。
「軟膏、おれにもくれよ。ラスピュイルは……いつもどおり、怪我の一つもしてないな。そのでかい体が羨ましいぜ」
「私はあなたのように機敏に動ける体が羨ましいです。怪我をしたくなければ、争わなければよろしいのに」
「いやー、それが難しいんだよなあ。おれたちのさがっていうかさ。カノルの歌を聞いて正気でいろってのも無理な話でしょ」
「それは、あなたがたが多少なりとも争いたい気持ちを持っているからでしょう。そこにないものを掻き立てることはできませんから」
 血の出ている箇所は、濡らした布きれで拭いてから、また別の小瓶に入った液体を傷口に振りかける。いつになくシュレルが二の腕の傷で騒ぐので、ラスピュイルはきつく包帯を巻いてやった。すると安心したのか、あっという間に眠りに落ちた。
 ほかの団員もじきにベッドで安らかな寝息を立て始めた。
 月が彼らの頭上を通り越した頃、シュレルが身を起こした。ほとんど音も立てず毛布から抜け出ると、手早く服を身に着ける。眠る三人に一瞥をくれてから、最小限の動きで部屋の外へと滑るように出て、そっと扉を閉めた。
 ただ一人、カノルだけは闇の中でそのかすかな音を聞いていた。思案しながら窓の外を見る。しばらく待っても、宿の外へは出ていないようだった。悩んだあげく、カノルはノイゼルを揺り起した。
「もう朝……?」
 カノルはシュレルが部屋を出て行ったことを伝えた。おそらく、宿の外にまでは出ていないことも。
「おー、そっか。わざわざおれを起こさなくても、カノルが行ってもいいんだぜ」
 ノイゼルは口ではそういいながらも、眠気にもたつく手つきで服を着始めていた。大きな欠伸が止むことなく湧き出てくる。
「わたしは、無理やり気分を変えさせることはできる。でも、きっと、わたしがそんなことしたら、彼は許さない。君の言葉なら、彼には一番よく聞こえると思うから」
「そっか。カノルがそういうんなら、きっとそうなんだろうな。教えてくれてありがと。見てくるよ」
 ノイゼルは微笑むと、ランプを手に取り足音を忍ばせて部屋を出た。ノイゼルには、シュレルがどこにいるか大体の見当がついていた。階段がきしまないよう心を配りながら、階下へと下りる。蝋燭の火がついたままの廊下を抜けて、受付を通り過ぎた。地下からかすかに聞こえる笛の音を追いかけて、地下への階段を下った。
 酒場の扉は軽く押しただけで開いた。はなから鍵などかかっていなかったらしい。楽士たちが暴れまわった部屋を夜中まで掃除させられた下働きが、眠たくて閉め忘れでもしたのだろう。本来ならばこういった酒場は夜じゅう賑わっているものだが、あまりに騒ぎすぎた疲れから客も早々に引き揚げた結果、宿も酒場を閉めることにしたと思われる。彼らが騒ぎを起こしたあとには、こうなることがよくあった。
「やっぱり、ここにいたんだな」
 ランプを掲げると、もう掃除されて整えられた中央のテーブルに腰掛ける姿が見えた。三つ又の蝋燭のほのかな光のもとで、シュレルもノイゼルの姿を見とめると、口から笛を離した。
「起きてたのかよ」
「いや、カノルに起こされた」
「ちっ、寝てると思ったのに」
「それはこっちの台詞だよ。おまえ、一番先に寝てただろ」
 シュレルは俯いて言葉を返さなかった。ノイゼルはシュレルの顔を覗き込んだ。
「おまえさ、明日、会うのが怖くなったの?」
「……明日のことだけ夢見て、一年過ごしてきたのにな」
 笛を持つ指が小刻みに震えていた。うわの空で自らの震える手を見つめる。
「カノルに勇気づけてもらえば? 寒くもなくなるかもしれないぜ」
「寒くなんかねえよ。それに、あいつに歌わせたって駄目だろ。これは俺の問題なんだ。あいつにはハイになった状態で会いたくなんかないし」
「確かに、おまえが立ち向かわなくちゃいけないことだよな。別にカノルに頼まなくったっていい。だけど、おれたちをここまで連れてきたことは忘れんなよ。なんのためにおれたちがいると思ってんだ。みんな、つっても三人だけだけどさ、おまえに付いてこの街まで来たんだぜ。これ以上面倒くさいこと抱え込む覚悟くらいできてるっての!」
「お前って……いっつも熱いよな」
 目の焦点はどこか知らない遠くから現在に戻り、ノイゼルを見つめて苦笑した。
「熱いってなんだよ!」
「あんま大声出すなよ。ここに居るのがばれるだろうが。それじゃあ、手伝ってくれ。静かにな」
 言うとシュレルは笛を口に当てた。そして、ちいさな、ちいさな音で吹き始める。無音に思える静寂の中でシュレルの笛の音だけが、酒場を通り抜け、酒場と繋がっている厨房の隅まで響き渡り、また酒場に戻ってきた。震える音の一粒一粒が連なり、列になって、ゆったりとして単純ながら深みを持ったひとつの曲へと姿を変える。音がこの静かな空間に散らばって、あたかも星が降るように降り注いだ。
 シュレルが奏でる曲を知っていたので、ノイゼルもまた静かに指の腹でテーブルを叩いて拍子を取った。それで充分だった。その曲は知りすぎるほどに知っていた。それは、旅立つ前、シュレルと同じ音楽院で学んでいたときにノイゼルが作った曲だった。書きつけた羊皮紙を家に置いたまま、住み慣れた街を飛び出して、そのまま忘れていたのだった。久しぶりに聴いた自分の曲は、完全に忘れ去ることなどできなかったようで、自然に体が正しい拍子を取った。
 彼らの音楽は酒場中に広がったが、上で眠る人々の眠りを妨げるほどうるさかったわけではない。地下にあるという建物の構造からか、ほとんど酒場だけに留まっていた。彼らは奏でる曲を練り上げ、曲は空間と一体になった。あまりにも静かで、最後の音が消えた後でも、酒場中に音の名残が響き渡っているような気がした。それがついに彼らのもとを去るまで、二人は身動きすらしなかった。
 しばらくしてから、ノイゼルが口を開いた。
「おれの曲、覚えてたんだ。ずっと、おまえは他人に興味がないんだとばかり思ってたよ」
「ノイゼルらしくていい曲だと思ったぜ」
「そういう大事なことは、作ったときに言えよなー。題名つけるのも忘れてたのに」
「おまえが付ける変な題名があったら、記憶の彼方に追いやってただろうな」
「なんだよ、それ!」
 二人はささやき声で笑い合った。それから、シュレルがいった。
「あのな」
「なんだよ」
「演奏会の出場申請が昨日までだった」
 唖然として、ノイゼルは二の句が継げなかった。それでも、なんとか衝撃から立ち直った思考の欠片をかき集め、シュレルを問いただす。
「いやいやいや、そりゃないだろ! おまえ、おれたちのリーダーだよな? なんでそんなことも知っとかないんだよ! てか、明日どうすんだよ!?」
「どうするって、どうしようもないだろ。俺だって、どうしたらいいんだかわかんねえよ。今日、酒場で俺たちのこと煽った男から聞くまで、そんなこと知らなかったし。どおりで、笑われるわけだよな。そもそも、この演奏会のこと俺に勧めたのお前だろ。だから、お前が知ってるもんだとばかり思ってた」
 焦るでもなく申し訳なさそうな様子を見せるわけでもなく、淡々と喋る姿が、ノイゼルの怒りをじわじわ高めていく。
「はあ? それ、一年前だぞ! そんなの、その時点で知ってるわけないだろ」
「そうだよな。わざわざこんな辺境の街にまで来なければよかったよ。会いになんて来るべきじゃなかったんだ。このことはもしかしたら、明日、再会しないほうがいいっていうお告げかもしれんな」
「おまえ、ほんと……ありえねえ」
 ノイゼルは頭を振って長い溜息をついた。心底呆れ返った表情が、暗がりの中でランプの明かりにはっきり照らし出された。
「おれは明日帰るからな。もうおまえのことなんぞ知らん。その面を二度と見せんじゃねえ」
「さっきまで仲間だなんだって言ってたのに、一人で帰るのかよ!」
 ノイゼルが冷たい言葉を吐き捨てれば、つられてシュレルの口調も荒くなった。
「ああ、帰るよ。愛想が尽きたんだよ。おれは仲間だと思ってたけど、おまえはリーダーとかいいながら、まともに役目をこなしたことないんだからな」
「俺は曲を作ってお前たちの演奏全部指導してやっただろうが! 客の対応って意味なら、お前がリーダーみたいなもんだっただろうがな」
「どうせ、おれには才能ねえよ。おまえみたいな才能は。おれのことも楽器のひとつみたいに思ってたのかよ」
 凍える視線をシュレルに投げかけると、ノイゼルは荒々しく扉を閉めて出て行った。
「そんなこと言ってねえだろ!」
 立ち上がってノイゼルの背中に向かって抗議するも、彼が振り返ることはなかった。シュレルは闇の中に一人、取り残された。

 頭を抱えて思案しているうちに、どうやら眠ってしまったらしい。やにわに階段を下る複数の足音で目が覚めた。音を立てて扉が開かれ、いくつかのランプに照らされた顔が酒場の中を覗いた。ラスピュイルとカノルかと思って、シュレルは顔を上げる。
「泥棒か!?」
「あそこだ!」
「えっ? うわ、なんだよ! 離せ!」
 やってきたのは、酒場を開けようとして中に人がいることに驚いた下働きに起こされた、宿の主人と従業員たちだった。シュレルはなすすべもなく羽交い絞めにされた。
 なにも盗まれたものがなく、シュレルが宿泊客であることがわかったので、拘束された時間は長くはなかった。騒ぎを聞きつけて駆け付けたラスピュイルが平謝りし、カノルが主人に金貨を数枚握らせたことも功を奏した。鍵をかけ忘れた下働きも、金貨のおかげかそれほどきつくは絞られなかった。
 解放されたころにはすでに太陽が姿を現していた。シュレルは朝食の硬いパンをかじりながら、ラスピュイルとカノルに演奏会に出られないことを話した。
「なるほど、そうだったんですか。でもまあ、私とカノルでどうにかできると思いますよ。その男が真実を語ったかどうかも、さだかじゃないじゃないですか。しっかりしてください! あなたは私たちをここまで連れてきたでしょう。演奏会で優勝を掴んで、無事に家路につかせてくださいよ」
 カノルも首を強く振って同意を示す。もっとも、彼女は夜、ノイゼルをシュレルのもとに向かわせたことに責任を感じていた。
「ほら、昨夜の怪我も綺麗さっぱり治ってますよ。ひとまず、落ち着いてください」
「どうにかって、一体どうする気なんだ?」
「カノルの力で無理やり奥方のもとまで連れて行ってもらいましょう。あなたは先に言ってくださればよかったのに。大丈夫、なんとかなりますよ」
「だが、太鼓をどうしたらいいんだ。今日、急に新しいメンバーを入れることなんてできないだろ」
「ノイゼル、朝早くに荷物をまとめて出て行いったよ」
「あいつは探さなくていい。勝手にさせとけ!」
 ラスピュイルとカノルは顔を見合わせた。
「彼を探す以外、方法はないように思いますが」
「無理にでも方法を考え出す。じゃなけりゃ、太鼓はなしだ。そもそも、出られればの話だがな」
 ラスピュイルは肩をすくめた。カノルは濃い眉をしかめた。
「彼なしなんて無理ですよ」
「うん。わたし、探してくる」
「あっ、おい!」
 どうやって探すのかは尋ねなかった。カノルは、分厚いマントから漆黒の長い巻き毛をかき上げて広げた。髪を体に巻きつけるようにして揺すると、一瞬にして駆け出した。彼女はあっという間に見えなくなった。
 それからシュレルとラスピュイルは宿の部屋でやきもきしながら待った。特にシュレルは部屋中行ったり来たりして、練習するといいながら、曲の途中でかすかな物音を聞きとると笛から口を離し中断するのだった。辛抱強いラスピュイルはシュレルのこの様子に夕方まで付き合わされた。
 日が傾けば傾くほど、シュレルの焦りも増していった。日が沈んだら演奏会が始まるからだ。もう狭い部屋の中で待つことに耐えられそうになく、シュレルが外に出ようと扉の取っ手に手をかけたときに、扉が外から引かれた。
 カノルがノイゼルを連れて立っていた。虚を突かれたシュレルが数歩あとずさる。ノイゼルは固い表情のまま、部屋に入ろうとせず戸口で永遠に突っ立っているかに思えたので、カノルは彼の背を小突いて部屋に入らせた。
「よかった、見つかったんですね」
 ラスピュイルがほっとして胸をなでおろす。カノルは強くうなずくと、部屋の外の方へ顎をしゃくって見せる。ラスピュイルはようやく重い空気の部屋を離れられて、嬉々として出て行こうとした。それを見てシュレルは慌てた。
「おい、置いてくなよ! どうすりゃいいんだ、これ!」
「あなたが自分でどうにかしなきゃいけない問題でしょう。邪魔者は出ていることにしますよ」
 軽やかな足取りでラスピュイルは出て行ってしまった。シュレルはより重苦しい空気の中に閉じ込められた。しかし、何か言わなければ始まらない。
「あ、あのさ……。その、夜はごめん。本当にすまない」
 何に対して謝っているのかいまいちはっきりとしないシュレルの謝罪に、ノイゼルは顔を上げた。強張った顔で淡々と話し始める。いつもの陽気な抑揚は影も形もなかった。
「おまえ、おれが何にキレたかわかってる? わかってねーだろ」
「えっと、俺が締め切り知らなかったのお前のせいにしたからじゃ……」
「ちげーよ。おまえが行くのが不安なのを、お告げだのなんだのと正当化しようとしたからだよ。それ、おれたちの一年を無駄にしてんじゃねーかよ」
 自分がどんなことをいったのか、そもそもちゃんと覚えていなかったシュレルは言葉に詰まった。限りなく低い声を喉から絞り出す。
「悪かった」
「おまえでも謝ることあるんだな」
 ノイゼルが鼻で笑う。シュレルに目線を合わせずに斜め下の床に向かって嘲笑する。この一年、側にいて癖が移ったのか、シュレルがいつも人を嘲笑う姿に良く似ていた。
「あの時はどうにかしてたんだ。この上なく暗い気分だった。世界で一番不幸な気がしてたくらいだ。カノルならどうにでもできることだったのに。寝る前にみんなに言っておくべきだった。お前にあたったりせずに。逃げるようなことを言って、本当に悪かった。もう逃げようとなんかしないから。頼むから、演奏会には俺たちと一緒に出てくれ。頼む!」
 シュレルは誰にも下げたことのない頭を下げた。冷たい眼差しでノイゼルが見下ろす。
「出れんのかよ、演奏会」
「カノルならなんとかする。それが駄目なら、ラスピュイルに力づくでもなんとかしてもらう。少なくともそう信じてる」
「じゃあ、おれのことも信じろよな。仲間なんだから。おまえらを放っておいて帰るわけねーだろ」
「え?」
「てかさ、おまえも充分熱いから! おもしろすぎ!」
 堪えきれない、といった様子でノイゼルは噴きだした。そのまま腹を抱えて笑い転げる。シュレルは目を白黒させた。
「お疲れ様です」
 見計らったように扉が開いて、酒場で買った飲み物を手に、ラスピュイルとカノルが部屋に入ってくる。
「ひー! おまえらにも見せてやりたかったぜ、こいつの真面目な顔!! 全っ然似合わねーの! 」
「聞いてましたよ、扉の外で。というか、廊下まで筒抜けでしたから」
「ど、どういうことだよ!?」
 顔を赤くしてシュレルがわめく。それが更にまたノイゼルの笑いを誘う。
「わたしがどこで彼を見つけたと思う? 街の食堂だよ」
「本気で帰ったと思った? 思った? 残念! メシ食ってましたァー!!」
「なんだそりゃ……」
 脱力してシュレルはへたり込んだ。妙に疲れを感じていた。反対に異様なテンションのノイゼルは部屋中はしゃぎ回る。
「あー、おもしろかった! カノルのおかげで良いもん見れたぜ!」
「お前、俺に怒ってたんじゃなかったのかよ」
「いやー、確かにおまえにはムカついたけどさ、寛大なおれは街で一番の食事と上等の酒で手を打ちました! ごちそうさま!」
「は?」
 シュレルはポケットを探った。財布が見当たらない。顔を上げると、カノルが見覚えのある財布の端をつまんでぶらぶら揺らしていた。
「いつの間に盗りやがった!」
「君が当然見せたいと思うであろう誠意を、代わりに彼に見せただけだよ」
「ちなみに、カノルは一口も食べてないぜ。これは誓って本当だぜ!」
「お前も大概けちだな!」
 カノルの手から自分の財布をひったくる。中を開いて確認すると、確かに金が減っている。
「これだけじゃ、真っ直ぐ帰れねーじゃねーか」
「おっ? なんだ、嬉しそうだな!」
「嬉しくねえよ!」
「まあまあ、また楽しく稼ぎながら旅すりゃいいじゃんか!」
「そうですよ。吝嗇なうえに性格も悪いんじゃ、シュレル、あなた何も良いところないですよ」
「うっ、うるせえ! なにもそこまで言わなくていいだろ。まあいい。ノイゼルの腕を買ったにしては安く済んだと思っておくさ」
「あはは、やったね!」
 シュレルは溜息をついた。その顔は、先程までとは打って変わって晴れやかだった。
「さっさと支度しろよ。行くぞ、演奏会に!」

 カントール奥方が主催する演奏会は、領主の城館目の前の広場で行われる。彼らが広場に着いたころにはすでに数多くの天幕が張られ、賑わっていた。
「旨そうなもんがたくさんあるなあ」
「あなたはさっき食べたんでしょう?」
「食い物は後にしろ。まずは出場資格を取っちまうぞ」
 シュレルは羽飾りのついた黒い三角帽を目深に被り直した。四人はそれぞれ楽器を担いだまま、簡素に組み立てられた舞台の裏側へ入った。出場者たちの楽器を管理していると思しき召使が帳簿を手に、彼らを呼び止めた。
「ぎりぎり間に合われましたね。演奏会はもうすぐにでも始まるところですよ。出場申請はお済みですか? 団体名を仰って下さい」
「済んでない。いま、その出場申請を受けに来た」
 堂々とのたまうシュレルに、召使は困惑して説明した。
「出場申請は一昨日までです。申し訳ありませんが、演奏会に出場していただくわけにはまいりません」
「後悔するぜー。奥方様は是非ともおれたちの演奏聴きたいって言うだろうに」
「俺たちはゴビル楽団。カノル、挨拶してやれ」
 カノルは男たちの後ろから進み出ると、口を開けた。歌と呼べるかも定かでない、複数の高い叫び声がひとつの喉から飛び出して、召使の頭を揺すぶる。シュレル、ノイゼル、ラスピュイルも各々の楽器でそれに加わり、カノルの声もそれに応じて言葉の形を取り始めた。言葉は会場にいるほかの大勢に聞きとられぬよう、早口のささやき声で唱えられた。
「われは命じる、命じる、おまえに わが頼みを引き受けよ、快く 要求を呑め 命じるとおりに行動せよ
わが言葉がおまえの体 お前の腕 お前の足 わが言葉がおまえの血管を巡る 腱を動かす 思考になる
服従せよ、わが言葉の前に! われは命じる、この言葉で!」
 それらの声は次第に高いものと低いものふたつに別れ、鋭い歯を持った凶暴な顎が噛み合わさるようにして両方から召使を襲った。
 カノルの声にあてられて、一時的に正常な思考を奪われた召使は、カノルの歌が終わるとしきりにうなずきながら話した。
「ええ、ええ、なるほど。奥方様はきっとお聴きになるでしょう。ゴビル楽団、ですね? 出場申請を認めます。こちらに楽器を置いてください。帳簿に書き足しておきます」
「よかった。恩に着る」
「恩もなにも、やっぱり力づくじゃねーか」
 彼らは正規の出場者たちと同じ場所に楽器を並べて置いた。表で歓声が上がった。太陽は沈み、カントール奥方が夫である領主を伴って姿を現した。一斉に松明が灯される。初老の領主は肥えた重い体を、舞台の真正面に設えられた椅子に深く身を沈めた。若く美しい奥方は優雅に舞台に上がった。銀色の髪に、白く秀でた額に、きらめく宝石に、はぜる松明の橙色と陽の名残である血の赤色が躍る。ひとつ息を吸い込むと、奥方の小さな口から発せられる言葉は広場の隅まで届き渡った。
「みなさま、今夜はわたくしの楽士を選ぶ演奏会へ、よくいらしてくださいました。どうか今晩はしのぎを削って、最高の音楽を見せてくださいませね。今日という日をもうずっと楽しみにしていましたの。わたくしの詰まらない話はこれくらいにして、さあ早く、楽しませてくださいな」
 会場は湧き上がった。奥方は領主の隣に腰掛け、最初の出場者が読み上げられた。
 四人は会場のほうへ出た。腹ごなしをし、余裕があれば披露される歌に合わせて踊り、自分たちの出番に備える。もちろん、昨夜酒場にいた連中も会場にいた。
「あっ、おまえら、昨日の! どうだ、来るのが遅かったってわかっただろ。……それにしても、おまえらも昨日は騒ぎに加わってたよな? それにしては痣のひとつも見えねえじゃねえか」
「お前はその面で舞台に上がるつもりなのか?」
 顔に昨日の傷が残る男たちはシュレルとノイゼルを不思議そうに見つめた。シュレルが噛みつくのを気にも留めない。
「へへっ、なんとでも言え! おまえらと違ってあの上に立てるんだからな! せいぜい下から指くわえて眺めてろよ!」
「楽しみにしてるよ」
 言い足りなさそうなシュレルを押さえて、ノイゼルが愛想のいい笑みを返す。曲が終わり、新しい名前が呼ばれた。
「おっと、次はおれたちだ。じゃ、せいぜい優勝候補第一位のおれたちの演奏に聴き惚れな!」
「残念だったな、おまえら! 一昨日来てれば、おれらといい勝負だったろうになあ!」
 旅の吟遊詩人たちはかけ声を上げながら舞台の裏へ去っていった。歌がはじまると、シュレルはさっそく一笑に付した。
「なあにが、優勝候補だ。よく言うぜ」
「いやあ、上手いと思うけど。でも、まあ、曲の選択はちょっとねえ」
 男たちはしんみりした歌を披露していた。楽しい踊りの曲ばかりだったところにこれだと、盛り下がるものもある。
「テンポの速い曲ばかりでも飽きるでしょう」
「それにしてもこんな泣きの入った歌じゃ、暗くなるしかないだろ」
「この後に演奏するとこはラッキーだね。実力よりも盛り上がるんじゃない?」
「それをいったら私たちだって、カノルの歌があるから魔法が使えるわけですが」
「お前は俺の曲が下手だとでもいうってのか? 喧嘩ならいつでも買ってやるぜ! だいたいあいつは、がっ……」
 楽器、といおうとしてシュレルは口をつぐんだ。不服そうにラスピュイルとノイゼルに交互に目をやる。
「なんでおれを見るんだよ」
「こいつの前で仲間って言っちまったからには、楽器とはもう言わん! だけど、俺の腕を馬鹿にするのは絶対許さねえからな!」
「そういうつもりで言ったのではないですよ」
「おまえも成長したなあ、シュレル。おれは胸が熱くなるよ」
「成長の度合いが低すぎない?」
 ノイゼルはこれまでの旅を思い起こして感極まっていた。カノルは首をかしげる。悲しい曲が終わった。男たちは拍手を受けて舞台を下り、また新たな名前が呼ばれる。夜はこうして更けていった。頭上で月が輝き、飲み食いする手が落ち着くころになって、ようやく最後の名前が呼ばれた。
「いよいよ最終組です。ゴビル楽団!」
 昨夜酒場にいた者たちからざわめきが零れる。
「おい、おまえら昨日この街に着いたんだろ!? なんで……」
「俺たちの演奏を是非とも奥方が聴きたいって、ご所望なのさ」
 シュレルは薄笑いを浮かべてはぐらかした。疲れた楽士たちと踊り足りない町の住民を背に、舞台裏に回る。シュレルは張りつめた三人の顔を見まわした。
「ついにここまで来た。ここまで来れたのはお前らのおかげだ。感謝する。……なんだ、その顔は」
「いやー、面と向かって言われるとやっぱ恥ずかしいな」
「あんまり照れさせないでくださいよ」
「お前らが緊張してるから、言ってやったんだよ! 俺だって恥ずかしいわ!」
 張りつめた空気が緩む。シュレルはため息をついた。頭を振って、場を仕切り直す。
「手順はわかってるな? 調律は? よし、気合い入れていくぞ。……カノル」
 四人は手を重ね合せた。カノルは目を見てうなずくと、大きく息を吸い込んだ。
「シュレリー、ラスピー、ノイジー。行こう!」
「おう!」
 彼らは跳ね駆けるように舞台へと上がった。四人そろって、奥方とその夫に一礼する。四人の視線が絡み合い、ほどけた。シュレルは太い縦笛に命を吹き込んだ。
 まず、シュレルが強弱の激しい旋律を見事に吹きこなす。つぎにノイゼルが置かれた皮の太鼓とは別の、木の皮でできた薄い太鼓を掲げてそれを打つ。さらにラスピュイルが加わって、抱えた竪琴をかき鳴らす。彼らは一旦息をつき、カノルにその場を譲る。
 カノルはマントの留め金を外した。中から丈の長い異国風の衣装が現れる。マントを舞台の端に放り投げ、観客のほうへ向きなおる。ノイゼルが手拍子をし、カノルは日に焼けた腕を差し伸べて大きな口を開けた。
「わたしは新しい恋を見つけた あなたのことは忘れ去った あなたのことは鍵付きの宝箱に閉じ込めた そして鍵を放り投げたの 懐かしのあの川に
あなたと二人で遊んだあの川を いまは別のボートが走ってる わたしを乗せて」
 カノルの歌声が会場に響いて染み渡ってゆく。風もないのに、彼女の長い髪が先端から微妙に持ち上がる。杯の中の酒は小刻みに震え、焼いた肉はかすかなビリビリいう音を立てた。その場にいる人々も、体の内でなにかがうずくのを感じ取っていた。
 曲調が変わった。ノイゼルが薄い太鼓を隅に放って、取り憑かれたように円柱状の太鼓をたたき始める。シュレルとラスピュイルがそれに激しい旋律を加える。音楽は会場の空気を疾走し、観客の心臓をそれと同じくらい激しく叩いて行った。
「真夏の恋人は輝く目をしてわたしを見つめた だけどすぐ、冬みたいに冷たくなった 太陽のきらめきと見紛えたものは 雪原の反射だった
あなたは夏じゃなかった 蕾が花開く夏では
美しく思えたものは 血の通わない美しさだった
あなたは夏じゃなかった 羊を太らせる夏では
虚ろな目をした崇拝者たちは やせ細るばかり
あなたは夏じゃなかった」
 カノルが繰り返すたびに、会場が沸いた。老いも若きも、踊らぬ者のいないほどだった。みながみな、熱に浮かされてカノルの歌声に酔い、殴り掛かるような攻撃的な旋律に突き動かされて、夢中で踊った。歌の中身が彼らを動かしていたのではない。カノルのよく通る声、高音も低音も自在に操る声の魔力に踊らされていた。領主とその奥方も手に手を取ってくるくる回っている。あちこちで杯が跳ね、皿が体を揺すり、馬はステップを踏んだ。人々はみな笑い、これほど楽しい光景は見たことがないほどだった。踊らぬ者はいなかった。
「あなたの愛を、熱を、体中が感じていた 世界で一番幸せ なんだってできそうだった あなたが命じるなら どんなことだってやれる気がした あなたと一緒なら わたしを見つめてくれるなら 熱い瞳で
でも、あなたは夏じゃなかった」
 彼らは幾たびも繰り返した。曲が終わるころには、みんな踊り疲れて足元もおぼつかないありさまだった。それは舞台の上の楽士も同様で、シュレルなどは舞台の上を隅から隅まで音楽に乗りながら歩き回って笛を吹いたせいで、いまにも倒れそうに見えた。
 まだ酔い覚めきらぬ観客から歓声と拍手が起こる。奥方は肩で大きく息をしながら、舞台へ近づいた。
「素晴らしかったわ、あなた方。わたくしはあなた方を優勝させるつもりよ。わたくしの城館で、わたくしの詩人になる心づもりはできていて?」
 四人の中からシュレルが進み出て、大仰に礼をした。と思うと、おもむろに帽子を脱いだ。帽子から流れ出ていたくすんだ金色の髪が、影から表舞台に躍り出る。
「お褒めにあずかり、光栄の至りです……カントール。まさか、俺の声を忘れたとは言わさんぞ」
 高い押さえた唸り声が漏れ出る。カントール奥方は、シュレルが顔を露わにしても、その声を聞いても、眉ひとつ動かさなかった。
「忘れないわよ、あなたの歌は……シュレル。やっと完成させたのね」
 二人は視線を交わした。かつてのようでなく、敵意に満ちた視線と感情を伝えない視線を。先に口を開いたのは奥方だった。
「わたしはあなたを買ってるの。あなたたちを選ぶのにさして迷いはなかったわ。もっとも、あなたの曲よりそこの歌姫のほうが素晴らしいみたいだけど。でも、どうしてここまで来てしまったの? わたしなんかを追って? ひどい女なのはもう知ってるでしょ」
「お前を追って? お前のためじゃない、俺のためだ! お前は俺の顔と才能に惚れ込みながら、俺の声を聞くと嘲笑った! 俺はその時の屈辱が晴らせれば充分だ!」
 シュレルは怒りでこぶしを震わせた。なにやら不穏な様子を見て取った領主が奥方の傍に駆け付ける。
「おい、大丈夫か? あまり下賤な者と話しすぎるなよ。おい、護衛!」
「心配ありませんわ。あれはわたくしを刺したりする度胸のある男じゃありませんから。もう少しだけ話をさせてくださいな」
「……そうか。おまえがそう言うなら、そのとおりにしよう。その代わりに、あの男とどういう関係なのか、あとで聞かせてもらうぞ」
「感謝しますわ、あなた」
 良い声の領主は再び椅子に戻り、色とりどりの指輪を飾った丸い手に豪華な杖を握りしめた。万一のために、近くに護衛を待機させる。カントールはシュレルに向き直った。
「あまりうるさくしないでちょうだい。で、あなたの屈辱を晴らせなかったらどうするつもり?」
「こうするさ!」
 シュレルの合図とともに、カノルが歌った。竪琴の弦は軋み、太鼓は地響きのような音で呪われた歌を支えた。人々を躍らせる魅惑の歌声は、地の底から聞こえる悪霊の呪詛へと変化していた。とても同じ喉から出ているとは思えない。会場にいる者はあまりに不快で恐ろしいこの声に耳を覆った。子供は泣きだし、娘は金切り声をあげた。食器が次から次へ割れてゆき、馬は後ろ足で立っていなないた。
「やめさせろ!」
 領主が叫ぶが、護衛は足がすくんで動けない。領主とて、椅子から重い体を持ち上げることはできなかった。
「やめなさい、シュレル! さっさとそれをやめさせて!」
「仰せのままに」
 シュレルが片手を上げて合図すると、歌も演奏もぴたりと止んだ。人々は息をつき安堵した。幾人かは自らが立ち上がるよりも先に彼らに白い目を向け、魔物だとささやく声もある。シュレルはそれらを気にする様子もなく、カントールだけに話しかける。カントールはなんとか立っていたが、歌が止んだ途端によろけそうになった。それを意地でも踏ん張り、立ったままシュレルを見つめる。
「俺の気が済むには、俺たちが優勝と認められればいい。だが、お前の詩人にはならん」
「そう。それだけでいいの。あなたもつまらない男ね。あなたのお友達もそれでいいって思ってるの?」
 カントールはさすがに顔を強張らせた。歌にあてられて息が荒い。首を傾けて、シュレルの肩越しに舞台へ目線を走らせた。
「おれはいいぜ、別に。遊んで暮らせるのは魅力だけど、うちに帰ってもそう苦労はないしなー」
「私はカノルと一緒であれば、どこだろうと構いません」
 ラスピュイルのこの言に、カントールは鼻を鳴らした。
「私はなにかおかしなことを言いましたかね?」
「ええ、おかしいわ。この男の楽団に、あなたのような人がいるってことがね。愛だの恋だの、馬鹿らしい。そう、それで歌姫さん、あなたは? わたくしの城館に来れば、悪いようにはしなくてよ。それどころか、本物のお姫様みたいな生活を保障してあげるわ。あなたがいれば毎日良い歌が聴けるばかりか、別のことでも役に立ちそうですもの。どう? いい話じゃなくて?」
 カノルは困った顔をした。
「君は誤解してる。わたしとラスピーは愛し合ってるんでも恋人でもないよ。君のほうが愛とか恋でしか物事を考えられないんじゃないの?」
「まあ、なんてことを言うの!?」
「わたしとラスピーは、同族だから一緒にいるんだよ。それに、仲間だし。四人みんな。わたしはこれから、もっと見たいところがある。でもそれは、みんなと一緒がいい」
「だそうだ」
 シュレルは勝ち誇った顔でカントールを見下ろした。カントールは歯噛みしてシュレルを睨みつける。領主がようやく立ち上がって、奥方に呼びかけた。
「カントール! そいつを押さえていてくれ! そいつら全員捕まえてやるんだ!」
「うるさい! 黙りなさい、この老いぼれ!」
 奥方の甲高い叫びは、護衛役も領主も凍りつかせた。シュレルは心底楽しそうに笑った。
「本性を見せたな、カントール。お前ら夫婦の事情は知らんが、早く優勝者をほかの奴らにも教えてやれ。でないとまた、カノルを歌わせるぞ」
「昔、ちょっと情をかけてやったくらいで、わたしに命令しないでちょうだい!」
 カントールは足音高く舞台へ上がると、シュレルから場所を奪った。数回咳をすると、もう表情も声色も冷静そのものだった。
「みなさま、長らくお待たせしました。優勝は……ゴビル楽団! わたくしたちみんなを踊らせたんですもの、異論はないですわね? それではこれでお開きです! 優勝を逃したみなさまも素晴らしかったわ。またわたくしが演奏会を開いたら、来てくれますわね? ああ、今日はほんとうに楽しかったこと! 来てくださってありがとう!」
 拍手が起こった。それといくつかの不満の声が。みな帰り支度を始めた。カントールはしんみりした歌を披露した吟遊詩人たちに声をかけている。シュレルたちの代わりに城館に召し入れるつもりなのだろう。
「それより先に、自分が追い出される心配をしたほうがいいんじゃないのかねえ」
「俺はもう、あいつがどうなろうと知ったこっちゃないね」
 彼らも帰る支度をしていた。一晩宿で休んでから帰りたかったが、金がないというので宿にも泊まらず帰ることになった。
「また野宿の日々が始まるんですね……」
「馬車で寝れるんだからいいだろうが」
「馬車の底、固いんだよなー。せめて毛布がもっとあったらなあ」
「文句は道中で稼いでから言え! それか、その腕輪を売って毛布を買って来てくれても俺は構わないぜ」
「あーっ! なんでそんなこと言うんだよ! おれの宝物に!」
 ノイゼルは腕輪を腕ごと手で覆って背中に隠した。シュレルはにやにや笑い、ラスピュイルはため息をつき、カノルは苦笑した。
 彼らは去るときも騒々しく去っていった。来たときと同じく。ゴビル楽団はカントール奥方に認められたことで名を上げた。これまでのジンクスを打ち破って、彼らの名ははじまりの街から広がっていった。いつしかこの街は、なにかを始めたいと思う人間が訪れるのではなくなった。演奏会は毎年開かれ、楽士たちが名声を得るためにやってくるようになった。それ以降はじまりの街は、この街から羽ばたいてゆく、始まってゆく楽士たちを毎年見つけることができた。
inserted by FC2 system