4. 石像


 先にあるといった川にたどり着くのに、二日かかった。ふたりが川に着いてみると、川は水量が多く流れも速く、橋は流されていた。
「せっかく魚が食べられると思ったのに、これじゃあ、流れが速すぎて、釣りができないじゃない! こんなことなら水浸しのパンを食べておけばよかった!」
「はやくインスラ宮殿に向かいましょう。宮殿まで行けばきっと、私たちをもてなさないわけにはいかないでしょうから。とはいえ、橋がないのは困りましたね」
 ふたりはこの二日間、馬が食べるのと同じ草を噛んで空腹をごまかしていた。木に生るもの意外に食べられそうなものはなかったのだ。また、樹液に掛けられた魔法には疲れを忘れる効果もあることがわかったので、ふたりは樹液を混ぜた水ばかり飲んでいた。
「この川は山から流れ出てるの。城を出てから大雨にあったでしょう? きっとそのときの雨で増水してるのよ。あそこらへんは雨ばっかりだし。まあでも、橋がないのは問題ないよ。跳び越えていけばいいんだもの」
 マリージェルは、慣れた手つきで馬を操り振り返った。ターは困惑して姫と川を交互に見た。川幅は、普通の馬で跳び超えようとしたとしても、五分の一も届かないほどあった。
「飛び越えて……。向こう岸まで全然行けそうにないですが」
「あなたの馬ならできるんじゃないの? あんなに高い塔の窓まで跳べたじゃない。わたしの馬だって、向こう岸までひとっとびでいけるのよ。上に高くは跳べないけど」
「残念ながら私の馬は、横に大きく跳べないんですよ」
 騎士の馬は人間がうなずくように頭を縦に振った。
「それは、困ったなあ」
 ターは途方に暮れてマリージェルに視線をやった。
「なにか方法はないでしょうか?」
「そうね。ないこともない……かも」
 姫は博識といわれるに相応しい、賢そうな表情で顔を上げた。
「あそこに石像が建っているのが見えるでしょう? 元々はそこに橋が架かってたの。あれを利用できると思う。……ほんとはね、正しいやり方は、川の前でいくつか呪文を唱えることなの。そうすると渡れる飛び石が出てくるんだけど。オザマ……」
「オゾマトゥララーンシス」
「そう、彼の邪悪な魔術に、わたしは触れたくないから! 絶対、別の方法で渡るよ!」
「そんな便利な方法があるんですね」
「使わないからね!? 彼の魔法に触れたらどうなるかわかったもんじゃない。もっとひどいことになるかもしれないんだから!」
 姫と騎士は石像のもとに向かった。
「どうやって川を渡るかというとね、あそこに石像が見えるでしょう? あの石像は生きていて、だいたい体は石でも普通の人間と同じように動くんだけど、引っ張れば引っ張っただけ、石の舌が伸びるのよ」
「ええっ……。なんですか、その、気味の悪い魔法は」
「まだ王が子供だったころ、ひとりの臣下が彼に些細な嘘を教えたらしくてね、それを知った彼は怒り狂ってその臣下を魔法で、大きな動く石像にしてしまった。それで嘘をついたその舌をそんな風に気持ち悪いことにしたってわけ。正面から近付くと攻撃してくるから気を付けてね」
 ターは剣を抜くと、足音を忍ばせて石像に近寄った。石像は、近くで見ると巨人のようだった。背後に回って剣を握りなおしたときに気が付いた。この石像は息をしていた。石の体が呼吸で微妙に上下している。仮に魔物でも背後から襲いかかるのは矜持に反する気がしたが、姫のためと思い直して、ターは剣を振るって石像に斬りつけた。
 刃が石にこすれて不快な音を立てた。かすかなひっかき傷がついたにすぎず、石像は勢いよく振り返った。その顔をつかんで、口に剣を突きたてようとする。石像がこれまた石でできた剣を持った右手を振り上げたので、慌ててターは石像の胴を蹴って飛び退った。
 石像はバランスを崩し、仰向けに地面に倒れた。鈍い地響きがあたりに響いた。石像の剣は、本体が地面に打ち付けられた際に石の手から抜けて転がった。起き上がろうともがく石像をそのままにして、ターは石像の剣を手に取った。
 それはターの力でも引きずるほど重かった。こんなもので斬られたらたまらないと、ターはそれを岸まで引きずって運ぶと、苦労して川に落とし入れた。剣は静かに沈んでいった。
 振り返ると、石像は緩慢な動きで起き上がっていた。石に彫られた顔がこちらを向く。明らかにそれは変化していた。怒りで顔が歪んでいた。
 ターは石像のほうへ駆けた。石像の足元をちょこまかと潜り抜けて攻撃し、石像が彼を捉えようと手を伸ばすと、その腕を一気に駆け上がり、頭部を掴んだ。石像は再びバランスを崩して倒れ、ターは石像の首に馬乗りになった。
 石像をターが押さえつけたのを見て、離れて馬の面倒をみていたマリージェルがやってきた。
「なにか上手い手は思い出しましたか?」
「そう、思い出したの。それをしっかり押さえててね、わたしがそいつの剣で口をこじ開けるから。剣はどこ?」
 ターはぎょっとして青ざめた。
「捨てました……川に」
「なんだってー! ああ、なんでもっと早く思い出さなかったんだろう……。わたし、どうしちゃったのかな」
「私の剣ではだめなのですか」
「口が堅いからなあ。かすり傷以上の傷をつけられなかったでしょう? それじゃあだめだと思うのよ」
 マリージェルはため息をついて座り込んだ。
「お立ちになってください。こんなところに座られては泥が付きますよ」
 ターが手を差し伸べようとすると、押さえられていた石像の腕が持ち上がって、ターの髪を掴んだ。
「ター!」
「お逃げください! 早く!」
 ターは慌てて石像の手から逃れた。石像の手の中には、何本かの金色の髪だけが残った。
 マリージェルはターと石像から少し離れたところまで来ると、走るのを止めて膝をついた。止まった途端に噴き出る汗を拭う気力もなかった。魔法の樹液でごまかしてはいても、姫の体は疲れがたまっていた。体を動かすのは好きだったが、塔の中でのぐうたら暮らしで相当なまっていたようだった。インスラ宮殿から塔まで魔法で運ばれてくる食事はどれも特別美味しかったのだ。
 彼女はどうにか石像の口を開ける方法を考えた。考えても考えても思い浮かばないので、なにか鍵になるものはないかとドレスを揺すぶった。すると、ポケットから半分に割ったいちじくが出てきた。握ったまま魔法で眠って、起きたときには何の気なしにポケットに入れておいたのだった。二日も放置したことで人間が食べるのには支障がありそうだったが、石像ならば構うことはあるまい。マリージェルは、いちじくを握りしめると、力を振り絞って石像のもとに歩き出した。
 石像の弱点を探りながら剣を振るっていたターは、近づくマリージェルを視界の隅に捉え、ひどく動揺した。姫のほうへ近寄らせないよう、石像を誘導しようと苦心した。声が届く範囲まで彼らに近付くと、マリージェルは声を張り上げた。
「ター! またそいつを押さえられる? わたしに手があるの! 今度は上手い手よ!」
「わかりました!」
 にわかに湧いてきた希望で元気づいたターは、またたく間に再び石像を打ち倒し馬乗りになった。
 マリージェルは石像の頭をのけぞらせると、その顔中にいちじくを擦り付けてぐちゃぐちゃにした。ターは顔をしかめて視線を逸らした。石像の目に潰れたいちじくが入って、石像が呻き声をあげた。口がわずかに開いたのを逃さずに、マリージェルは手の中の塊を石像の口に放り込んだ。
 石像の体から力が抜け、石像はただの石像になった。重い上あごをふたりがかりで持ち上げて、なんとか舌を引っ張り出した。舌はターの馬がぎりぎり乗っていられる程度の幅があった。
 まず先にマリージェルが舌の先を抱えて川を渡った。彼女の馬はほんとうに一回跳んだだけで向こう岸まで行ってしまった。舌を地面に降ろすと、石の舌はその場に落ち着いた。ターは愛馬に乗って一気にその橋を駆け抜けた。魔法に触れるとくしゃみをするニーグは、舌の上を走る間中、気の毒なほどくしゃみをしていた。
 川を越えて林を抜けると、すぐにインスラ宮殿が見えてきた。宮殿はまるで島みたいな丘の上に建てられていた。ターは懐かしさと安堵に息をついたが、マリージェルは浮かない顔だった。
「姫、宮殿が見えてきましたよ! やっと一休みできますね」
「ほんと、やっとだね。ター、危ない目にあわせてごめんね」
「姫が謝ることはありませんよ。私は大丈夫ですから。現にこうして無事ですし」
「あのね、わたしね、呪いにかかってると思うの。覚えてたはずのことも、頭に靄がかかったみたいで、思い出せなくって。城にいたときにはちょっと忘れっぽいくらいにしか思ってなかったけど」
「きっと、本を読みすぎたせいですよ」
「そんなことない! 宮殿に近付けば近付くほど、忘れてることがたくさんあるって思い知らされた。忘れてるのはクロリラーナのことばかりなんだもの。無理を言ってあなたに着いてきたのに。本当にごめんね」
 ターにはなんといってマリージェルを慰めたらいいのかわからなかった。
「そういえば、ターはクロリラーナの騎士なんでしょう? なにか知らない、わたしのこと?」
「それは……、たとえ、私が姫の知らないことを知っていても、姫が自分で思い出さなければ意味がないと思います」
「そうね。きっとそうだね」
 お互い物思いに沈んだまま、ふたりは宮殿の門を潜り抜けた。

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