3. いちじく


 ターは馬を進めながらあくびをした。昨日は夜じゅう火の番をしたので、うとうとした以外に睡眠を取っていなかった。かといって、マリージェルもぐっすり眠ったわけではなく、むしろ、濡れたドレスを脱げなかった不快感が気になって眠れなかった。
 というわけで、ふたりは荷物をすっかり駄目にし、重いまぶたをこすりながら進んだ。眠気覚ましに、マリージェルはターに話しかけた。
「ターって、どこの騎士なの? わたし、近隣の国の行事に出ることもあるけど、あなたの顔は見たことないと思うの。故郷はここから遠いの?」
「私は、クロリラーナの騎士です」
 この返答に、唖然としてマリージェルは騎士の顔を眺めた。ターは淡々と前だけを見据え、その表情から感情は読めなかった。
「あの王に仕えてたの!? あいつとは親戚だからよく遊びに行ったけど、じゃあ、わたしとターは会ってたかもしれないね」
「私は王に近しい身分ではないので、王国の行事でも守衛くらいしかしていませんでしたから、姫が私をご存じなくても当然ですよ。それに、三年前に呪いにかかってからは追放され、ロジオン国を通ってラテルナとは反対側の国々を放浪していましたから」
「若いのに、苦労したのね」
「苦労と言えば、これからの食事ですよ。残りのパンは濡れてしまいましたし、どうしましょうか。まさか、空きっ腹を抱えて姫を旅させるわけにもいかないでしょう」
 彼を案じる姫の神妙な顔つきに気が付いて、ターは明るい口調で話題を変えた。
「もうこうなったら、道端の木の実とか空飛ぶ鳥を食べるしかないじゃない。濡れたパンは捨ててないよね?」
「ええ……。でも、どうなさるんですか、こんなもの?」
「もっと先に行くと川があるから、そのパンを餌にして釣りをするのよ」
「乾かして食べる、なんて仰らなくてほっとしましたよ」
 食べ物の話をしていると、空腹が意識されて仕方なかった。ふたりは道の右と左にそれぞれ寄って、なにか食べ物がないか目を凝らして進むことにした。右をターが、左をマリージェルが担当した。
 もう昼も過ぎたころ、ようやくターが声を上げた。
「姫、見つけましたよ!」
「よくやった! もうお腹ペコペコよ」
 ターは果実を誇らしげに掲げた。手には美味しそうに色づいたいちじくがふたつ握られていた。
 ふたりは道の真ん中で立ち止まった。マリージェルはターからいちじくをひとつ受け取ると、さっそくふたつに割った。
「一応、私が先に食べてみて、毒やなにかがないか確かめますので、食べるのを待っていてもらえませんか……」
 しかし、ターの言葉は遅すぎた。彼が言い終わる前に、マリージェルはその高貴な口で道端のいちじくにかぶりついていた。
 ターは無意識に片手をもたげた。マリージェルは何度か果実を噛んで、大丈夫だとでもいうように微笑むと、そのまま後ろに倒れた。
 マリージェルが地面に倒れるより先に、なすすべなく伸ばされていたターの手が彼女を捕らえた。マリージェルは眠り込んでいた。平和な寝息を立て、ターの手に体重を預けている。
 ターはマリージェルを草の上に横たわらせると、地面に落ちたかじりかけのいちじくを持って、愛馬の鼻面に差し出した。黒い馬は、いちじくの匂いを嗅いで、舌先で少し触れると、突然くしゃみをしていちじくを吹き飛ばした。
 いちじくになんらかの魔法が掛かっていることがわかったので、彼は自分の分だったもうひとつのいちじくを放り投げた。
 ターは水をかけて姫を起こすことに決めた。彼には正しい姫の起こし方がわからなかった。姫に対して失礼になろうと、ここでずっと寝ていられるわけにもいかない。
「私はこの先にあるという川に、水を汲みに行ってくる。姫を守っていてくれるか?」
 ターは姫の馬に声をかけた。この馬はマリージェル以外を寄せ付けず、ターは馬に触れようとして幾度かひどい目にあった。白い馬は任せろと言わんばかりに勢いよくいなないた。そこで騎士は自分の馬に跨った。
 川は遠かった。ターは馬を走らせつづけたが、ふと、すでに夕方に差し掛かっていることに気が付いた。一国の姫をそこらへんに寝かせておいて、暗くなるまで放っておくことはできない。夜になってしまったら、白馬の警護にも不安を覚える。ターは川を目指したのより二倍も三倍も急いで道を引き返した。
 しだいに馬が疲れを見せるようになった。木よりも高く跳べるこの馬とは、クロリラーナからずっと共に旅をしてきたが、このような姿を見るのは初めてだった。焦る気持ちと馬の調子が心配なので、ターは胸が張り裂けそうだった。
 馬はだんだんと速度を落としてゆき、ついには荒い息で歩くまでになった。速く走るには向かない馬だと分かってはいたが、あのような跳躍をする馬が疲れ果て、とぼとぼと歩く姿は憐れみを誘った。夜は廃屋の中で休ませたし、草だってこれまでの旅を思えばゆっくり食わせていた。それなのになぜ、こんなところで疲れが出るのか。ターはかわいそうになって、馬を撫でてやった。
 馬は重い足取りで、道を外れて茂みへと歩みを進めた。ターがなにをいっても馬は聞かず、彼は馬の背から降りて歩いた。
 馬の首に手をかけて、どうやって彼を道に戻そうか考えあぐねている間に、馬は一本の灌木の前で歩みを止めた。見ればそれは、いちじくの木だった。実はついていないが、昼間ターが見つけた木と同じ種類であることがすぐにわかった。
 馬は幹の傷を探し出すと、ひづめで傷口を広げながらしずくを垂らす樹液を舐め取った。するとたちまち、馬は元気になっていった。目は暮れかかる茂みの中でらんらんと輝き、鼻から熱い息を吐き出した。これならマリージェルの目も覚めるかもしれないと思い、ターは腰の剣を抜くと、自分も木の幹に傷をつけ、樹液を水の入っている皮袋に垂らし入れた。
 十分な量の樹液を入れてしまうと、再びターは馬上の人となった。ターが馬を操らずとも、馬は勝手に速度を上げて駆け抜けた。馬が疲れてしまう前までの、二倍も三倍も速い速度で、馬は軽々と走った。
 ついにマリージェルのもとに駆け付けたときには、すでに暗くなっていた。その場には先客がいた。
 凶暴そうに唸る黒い犬が五頭、姫の周りを取り囲んでいた。彼女の馬がいなないたり蹴りつけたりして必死に犬を追い払おうとしていた。幸いなことに、犬たちはまだ馬に襲いかかる様子はない。ターはかぶっていた帽子を勢いよく投げ捨てた。
 あたりは不意に明るくなった。犬たちの注意がターに向いたので、彼は走る馬の背から飛び降りると、剣を抜いて犬の群れに斬りかかった。
 ターの剣が閃き、犬の黒い毛皮を彼の明かりでもわかるくらいに血で汚すころには、犬はすっかり戦意を失っていた。ターが空で剣を振るって威嚇すると、犬はみなそそくさと暗闇の中へ逃げ出した。
 マリージェルはかれらが戦う物音の大きさにもかかわらず、眠り込んだままだった。さっそくターは皮袋を取り出すと、姫の口に含ませた。
 樹液が口の中へ入ってくるのを感じてか、マリージェルの唇がわずかに動いた。そして、両の目がゆっくりと開いた。
「よかった……! お気づきですか?」
「おはよう。もう夜なの? ずいぶんぐっすり寝ちゃったのね」
「姫は、いちじくをかじると、突然眠り込んでしまわれたのですよ」
 マリージェルは起き上がると、光源に向かって微笑んだ。
「それで、ターがわたしの目を覚ましてくれたってわけね。ありがとう。あなたの顔が光り輝いて見えるよ」
「見間違いじゃありませんよ。馬に乗れますか? ここは危ないのでどこか別の場所で休みましょう。さっき、黒い犬が姫を襲おうとしていたものですから」
「黒い犬? あいつの飼ってるやつじゃない?」
「ええ。きっとオゾマトゥララーンシスの犬でしょう」
「そうよ、思い出した!」
 姫はぽんと手を打った。
「ラテルナからクロリラーナへのこの道に生えてる木にはすべて魔法が掛けられてて、食べると眠ってしまうのよ。そして、夜になると王の犬がやってきて、眠ってるところをがぶり! ってわけ。魔法の眠りから目を覚ますには、食べたものの樹液がいるの。……ター、よくそれがわかったね」
「私の馬が教えてくれたのです。彼がいなかったら、私には姫の目を覚ますことはできませんでした」
「さすがね、ニーグ。さすが……あなたと会ったことあったっけ?」
 マリージェルは騎士の馬を撫でる手を止めて、不思議そうに首をかしげた。馬は姫の顔を見つめ返した。
「それにしても、どうしてこの道はこんな罠が掛かっているのでしょうね。ロジオンのほうでは、このようなことはありませんでしたが」
「わたしのこと、嫌いなのよ」
 マリージェルは呟いた。ふたりは再び馬に乗って、その場を立ち去った。

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