鏡の中の魔女


 むかしむかし、あるところに美しい娘がおりました。髪はかがやく金色で、瞳は明るい、たいそう綺麗な娘でした。ある日、娘は惑いの森の泉から、月の光を盗み出して、ひとつの大きな鏡を作りました。それは、どんな真実でも映し出す魔法の鏡でした。

 その惑いの森のふもとには、広いお屋敷がありました。お屋敷を建てた貴族の夫妻はすでになく、かれらの一人娘がそこで暮らしていました。少女の名をミラといいました。ミラは時おり寂しさにかられることはあるものの、たくさんの召使と年の近い侍女たちがおり、それに加えて叔父のラズワルドがしばしば屋敷を訪れたので、驚くほど楽しく暮らしていました。
 本当に、ミラが普通の少女だったら、幾度も己の不幸を嘆くでしょう。ミラは幼いころ、お屋敷を襲った魔女に呪いをかけられました。鏡に映った自分の姿を見てしまったら、不幸になるという呪いです。ミラの脳裏には魔女の顔がはっきり刻み込まれました。たったひとりの家族だったミラの父は、お屋敷から鏡を取り払いました。それでもミラは不自由に感じませんでした。ドレスが乱れていれば常に彼女に付き従う侍女たちが直してくれますし、自分の顔は向かい合った人の瞳に映るのを見て、だいたい把握していました。それからほどなくして、ミラの父が突然眠るように亡くなると、彼女は始終不安がるようになりました。突然の物音に怯え、怒りっぽくなったのです。お屋敷のうち、悪名高い惑いの森に面する部屋にも行かなくなりました。けれども、お屋敷の日々は、表面上は穏やかに過ぎてゆきました。
 それからは、叔父のラズワルドがミラのことをよく気にかけてくれました。ほかの親戚連中と顔も合わせたことのないミラにとっては、たったひとりの親しい親戚です。この叔父は背の高い美男で、いつも愉快で、よくお屋敷に籠りきりのミラが退屈しないように、おもしろいものや珍しいものを手土産に持ってきては彼女を喜ばせるのでした。また、どんなときでも落ち着いていて、叔父にとって恐いものなど存在しないように思われました。ミラはあるとき、ラズワルドに尋ねました。
「叔父さまには、恐いものはあるの?」
「どうだろうねえ」
 ラズワルドはミラの頭を優しく撫でました。それから、ふと思いついていいました。
「私の恐いものを当てられたら、そのときはきっと、ミラのいうことをなんでもきいてあげよう」
「約束よ!」
 ミラは喜んで飛び跳ねました。ひとしきりはしゃぐと、彼女はラズワルドのもとへ戻ってきて、じっと目を見つめました。
「でも、いまはわからないわ。叔父さまに恐いものがあるなんて信じられないもの。あたしも何にも怯えないで過ごしてみたいわ」
「大人になったら恐いものなんてなくなるさ」
 ミラは健やかに年を重ね、美しい娘に成長しました。しかし、ラズワルドのいった言葉とは反対に、大人に近づくにつれ、ミラの不安の芽はふくらんでゆくのでした。
 そんなある日のこと、お屋敷にラズワルドがやってきました。いつものようにミラが出迎えると、ラズワルドは懐から手紙を取り出しました。
「ミラ、君はもうすぐ十七だよね。そろそろ社交界に出てみるのもいいんじゃないかな。これは今度ネムリック家の邸宅で催される舞踏会の招待状だよ」
 思いもかけない知らせに、ミラは夢中になりました。これまで、ほとんど外に出掛けたことがなかったのです。ましてや、だれかの家に赴き、たくさんのひとと顔を合わせたことなどありませんでした。舞踏会のことは本で読んで知ってはいましたが、いざ自分がそれに行くと思うと楽しみで仕方がなく、舞踏会のこと以外考えられないありさまでした。
 とうとう舞踏会の日がやってきました。ミラは時間をかけて湯を浴び、侍女たちにドレスや髪をしつこく直させて辟易させました。日が沈んで、待ちくたびれた叔父の前についに姿を現したミラは、驚くほどの美しさでした。丁寧にまとめられた金髪はまばゆく光って、まるで真夏の太陽のようでした。繊細な花の刺繍を施したドレスと首元に金剛石を身に着けた姿は、まさしく高貴な姫君のそれでした。
「叔父さま、どうかしら。まだ頬の赤みが足りないと思う?」
 難しい顔で頬をつねるミラに、ようやくいつもの彼女を見出して、叔父は笑いました。
「もう充分だよ。さあ、出かけようか」
 さて、ネムリック邸は、ミラのお屋敷からいちばん近い街にありました。ようやくそこへ着いたときには、まんまるの月がもう真上に上がっていました。
 広間の扉が左右に開いくと、中にいたすべての顔がふたりに向けられました。おしゃべりをしていた人は口をつぐみ、踊っていた人はくるくる回りながらも目を離さず、奏でていた楽師たちは力が抜けてすっとんきょうな音を出しました。ミラは誇らしい気持ちでいっぱいで、叔父の腕に手を絡めたまま歩を進めました。
 ふたりは兄妹のようでした。ラズワルドの髪はミラとおなじ純金の色で、外套は深く青い瞳に映える紺色。叔父が若く、洒落ているのも、いっそうミラを誇らしくさせました。
 ふたりはすぐに着飾った大勢の男女に囲まれました。叔父はひとりひとりに親しく挨拶をしています。ミラも行儀よくそれに付き合っていましたが、叔父がネムリックの当主たちと政治の話題に花を咲かせるので、彼女は踊りにゆきました。
 ミラの腕前はたいそうなものでした。お屋敷暮らしの中で、侍女たち相手に踊りの真似事をして遊んでいたのです。だれも彼女のステップについてこれず、ミラの顔をわれを忘れて見つめる相手が、足を引っかけることもしょっちゅうでした。
 喉が渇いて踊りの輪から離れると、先ほど踊った貴族の若者たちがミラを追いかけてやってきました。そのうちのひとりが手渡したボンス酒を飲むと、若者たちを改めて眺めました。みんな優雅で美しく、そして一様に恋する瞳でミラを見つめています。彼女が杯を空にすると、みなが一斉にしゃべり出しました。
「うるさいわね、順番にしゃべって」
 とどのつまり、かれら全員が尋ねたいことは、ミラがいままでこのような集まりに顔を出さずに、どうやって暮らしていたかでした。かれらが口々に彼女の美しさを褒めそやし、その姿をお屋敷に仕舞ったままでいたことは大きな損失だったと嘆くので、ミラは一層上機嫌でした。ミラが呪いのことを口にすれば、ある者は怒りを覚え、ある者は涙を流し、みながきっとその呪いを解く方法を考えようとミラに約束しました。
 ミラはこれほどまでに良い気分になったことはなく、いつまでたっても帰ろうとしないので、しまいには、ラズワルドがミラを引きずるようにして馬車に押し込みました。舞踏会は大成功でした。
 お屋敷に帰って、寝台に横たわったときも、ミラは夢心地でした。目ばかり冴えるので、暗闇の中で楽しかった思い出を反芻していました。そして、立派な貴公子たちが褒め称えた自分の容姿を見てみたいという思いが胸に浮かびました。一度そう思うと、そのことが頭から離れません。ミラは毛布にくるまり寝返りを打ちました。
「だめよ、そんなの……。それに、うちには鏡なんてないじゃない」
 それはもっともなことだったので、そんなことは忘れて早く眠ろうと努めました。想像の中の広間で彼女が夢の顔をした貴公子の手を取り、眠りに落ちようとしたその時、ミラは唐突に身を起こしました。相手の向こう側にある窓から照らし出された月の光に貫かれて、ミラは思い出したのです。お屋敷にひとつだけ、鏡が残っていることを。
 こうなると、もう、自分の姿を見たいという欲望に打ち勝つことはできませんでした。彼女は寝間着の上に毛布を巻き付け、寝室の扉を静かに開きました。
 ミラが記憶の片隅にしまいこんで忘れていた鏡というのは、顔も知らず亡き母の部屋にあるものでした。お屋敷の中で惑いの森に一番近いその部屋は、ずっと閉ざされたままでした。
 お屋敷の中は静まり返っていました。夜中も過ぎたからというだけではありません。召使たちは、疲れて眠っていました。それもこれも、長い間なかったミラの留守に、みな、はめを外していたのです。ですから、ミラが食堂で酔い潰れて寝ている召使頭を見つけたのもそういったわけでした。彼は酒蔵庫を含む、お屋敷すべての鍵を管理していたので、ミラは彼のベルトからそっと鍵束を抜き取りました。そうして眠れるお屋敷の中を、もはや高鳴る心臓を押さえきれずに、音を殺して走り抜けました。
 ミラが長年寄り付かなかった母の部屋は、閉めきってあるものの掃除は行き届いているようでした。そこは、廊下の窓の向こうに見える暗い森の陰鬱な雰囲気に押し込められているものの、清潔さを保っているのです。彼女は鍵という鍵を次々と試してゆきました。そうして、本当の鍵はどこか別の場所に隠してあるのではないかと疑問が頭をもたげたころ、何十本目かの鍵がなめらかに回りました。
 部屋の中は記憶にあるよりも、ずっと狭く感じました。なにしろ、ごちゃごちゃと家具や置物が並べられているのです。物置も同然でした。しかし、ほこりは少しだって積もっていませんでした。
 ミラは明かりを持ってくるのを忘れたことに気が付いて、光が射しこむ天窓を見上げました。その窓は、ミラの夢に出てきた窓とまったく同じ形でした。家具に足を取られながら窓のほうへと近寄ると、奥にぽつんと楕円形の影がありました。では、これが鏡でしょうか。彼女のおぼろげな記憶では、たしかに鏡は楕円だった気がします。それに手を触れると、重々しくざらざらした布が掛かっていました。やっと求めていたものを見つけて、ミラの胸ははちきれそうでした。勢いよく布をはねのけました。
 楕円形のそれに月の光が激しく当たって、眩しさに思わずミラは目をつむりました。彼女がそっと目を開けると、目の前にいたのは、魔女の姿でした。ミラは唖然として魔女を見つめました。しばらくそうしていると、彼女の頭もいくぶん衝撃から立ち直って、目の前の魔女もまた呆然とした顔をしていることに気が付きました。ミラがわけもわからずに手を伸ばすと、月光に洗われた冷たい壁に当たり、同様にした魔女の手と繋がりました。鏡の冷たさがミラの頭をはっきりさせ、ついで、さきほどより大きな感情の波がミラを打ち据えました。
 ミラは手にしていた鍵束を取り落しました。足がよろけて、背後の硬いなにかに腰をしたたかにぶつけました。鏡の向こうの魔女、金色の髪をした彼女も、後ろの家具に背をもたれて膝をついています。ミラは悟りました。ミラの不幸を予言し、鏡に映ったミラとおなじ顔をした魔女こそが、ミラの母親だったのです。
 もうなにも考えたくなくて、胸のうちで荒れ狂う感情に流されるように、部屋から躍り出ました。走って走って、ついにはお屋敷の外へと逃げ出しましたが、ミラはほとんど気が付きませんでした。そうして、知らず知らずのうちに、あんなに恐れていた惑いの森へと駆け込みました。
 この森というのが、暗く、しょっちゅう霧が出ているので、迷い込んだら最後、二度と出られないなどと噂されているのでした。現に、森の秘密と魔法を求めて、多くの男たちが出かけて行きましたが、戻ってきたのは早い段階で逃げだしたごく少数のものだけでした。
 ミラは森に入ると、暗闇の中でやっと立ち止まりました。惑いの森の中は完全な暗闇で、これ以上進めそうにありません。しかし、お屋敷へ取って返すなんて、いまのミラには考えることはできませんでした。彼女は暗澹たる思いに心奪われたまま、おぼつかない足取りで森の奥へと歩きはじめました。まったくの暗闇の中で、幾度も木の幹にぶつかり、茂みに足を取られながら歩きましたが、たいして進まぬうちに疲れ切って、探り当てた大木の洞に身を休めました。目を閉じれば、そこかしこに広間の輝きがちらつきましたが、それに見入っているうちに、やがて眠りに落ちました。
 ミラが目を覚ましたのは、太陽がようやくこの暗い森にも射しはじめたころでした。不快な夢のはっきりしない余韻を振り払って身を起こすと、昨夜の混乱よりは幾分かましな気分でした。それにしても、昨日無理やり森の中を進んだせいで、白い肌には打ち身に切り傷をこしらえて、体中が痛みました。それにひどくお腹が空いていました。
 その場で止まっていても仕方がないので、ミラはとぼとぼと歩きだしました。道すがら生っている木いちごをいくつか口に運びました。ですが、甘酸っぱいその味は、余計に空腹を意識させました。ミラは昨夜の満足のいく食事を思い出して、ため息をつきました。
 ところで、もう日は高いというのに、この森は噂通りに霧がかかり、十数歩の先は見通しがききません。ミラはすぐに方向がわからなくなって、木々の合間の道なき道を進みました。周りの様子がうかがえないので、鳥の鳴き声がするたびに、ミラは極端に驚くのでした。どうして歩いているのか自分でもわからず、終わりの見えない道に嫌気がさしてきたところで、ずっと奥のほうから声らしきものが聞こえてきました。
 その声は不明瞭ながら、歌っているような、つぶやいているような不思議に美しい声色でした。ミラはふらふらと声のするほうに近付いてゆきました。
「止まれ!」
 突然、さきほどの声を引き裂いて、別の大きな声が響き渡りました。ミラはびっくりしてあたりを見渡しましたが、人の姿は見えません。
「何人たりともこの先へ入ってはならん! おい、踏むな!」
 下を見ると、足の下からひきがえるが這い出てきました。ミラはこの驚異に目を丸くしてしゃがみこみました。
「かえるって口を利くものだとは知らなかったわ」
「よその低能どもと一緒にしないでいただきたい。惑いの森のわれわれはしゃべることができる。なかでも、わたしは、この森中で一番、大きな声を出すことができるのだ!」
 ひきがえるは、それにできる最大限、胸を張ってみせました。
「なんで入ってはいけないの?」
「なぜかといえば、決められておるからだ! よそものを入れぬのがわたしの役目だ!」
「ふーん、そう」
 そして、ミラはそのまま奥へ歩いて行こうとしました。ひきがえるが慌ててミラの前に立ちはだかります。
「聞いておったか? この先には入ってはならない。危険なのだ!」
 入るなと言われて好奇心を掻き立てられていたミラは、危険という言葉に憤然として、ひきがえるを睨みつけました。ほとんどやけくそでした。
「うるさいわね! どうなろうと知ったことじゃないわよ! あたしはいま、機嫌が悪いの!! あたしがその危険で死んでも、この森を道連れにしてやる!!」
 ひきがえるは自分より大きな声に驚いて、じっと固まって動かなくなりました。ミラは足を踏み鳴らしてその場を後にしました。
 まだ遠くの声は聞こえていました。怒り冷めやらぬままずんずん進んでゆくと、今度は優雅な声が響きました。
「止まりなさい」
 ミラは足を止めました。目の前に見えるのは、低いいばらの茂みだけです。
「いったい、だれがしゃべってるの?」
「ワタシよ」
 ミラが耳を近づけると、あきらかに言葉を発しているのは、いばらのようでした。
「あなたね、あんなに怒鳴って森の生き物を怯えさせるのは。あの、やかましいひきがえるを黙らせたことだけは、喜ばしいけど」
 いばらはその体を、さやさやと揺すりました。どうやら、これがいばらのくすくす笑いのようです。
「ともかく、だめよ、こんなところまで人間が入ってきちゃ。はやく帰りなさい。あなた、ひどい格好よ」
「格好なんてどうだっていいの!」
 痛いところを突かれて、ミラはわめきました。寝間着のまま森をさまよっていて、ひどい格好にならないわけがありません。そのことにいま気が付いて、自分の外見に対する自尊心が再び燃え上がったのでした。
「どうだっていいのよ! 放っておいて!」
 ミラはそう叫ぶと、無理やりいばらを越えようとしました。なんとか向こう側へ飛び超えたものの、ゆっくりと枝を伸ばしてきたいばらに、寝間着の裾を破り取られました。
 遠くから聞こえた声は、いまではだんだん大きくなっていました。ミラは足を速めました。
「止まれい!」
 低くしわがれた声が響きました。ミラはため息をつきました。
「もう、今度はなによ」
「再三の忠告を無視し、このような奥地までやってきた不敬の輩め! ここから先へは一歩たりとて通しはせぬ」
 声がそういうと、ミラの視界は一面、緑の壁に覆われました。森の木々が各々の枝を伸ばして、目の前を覆っているのです。触れてみると、硬い枝と鋭い葉ばかりが限りなく続いていました。力ずくでこの壁を通り抜けることは、どうにも難しそうでした。
「どいてよ! あたし、その奥に行かなきゃいけないの!」
「この先に用のある人間はひとりとていない」
「だって、だって……、あたしのお母さまは魔女だったのよ! もうあたしの居場所はどこにもないのよ!」
 ミラは力の限り叫びました。黄緑色の瞳に湧き上がる涙を拭おうともせず、ただ地面に流れ落ちるにまかせていました。
 木々はミラに面食らったのか沈黙し、しばらくたってあの低い声が話し出しました。
「魔女の娘は人間ではないということにしておこう。よし、そなたがわれらの根に落とした涙に免じて、ここを通してやろう。だが、くれぐれもこの先でそなたの居場所が見つかるとは思わぬことだ。惑いの森はよそ者を必要とせん。それは、あの方がお決めになったことであるからして」
 唖然とするミラの前で、森が開きました。ミラは木々に感謝して、先へと進みました。
 道を進んでゆくと、突然目の前が開けました。これこそが惑いの森の中心部でした。まんなかにはきれいな青い泉があります。さきほどまで聞こえていた美しい声の主はどこなのだろうといぶかりながらも、泉のほとりに座り込みました。ミラが水を飲もうと身をかがめたそのとき、水面を見て身動きが取れなくなりました。
 ああ、泉に映ったミラの醜いことといったら! 髪はぼさぼさ、寝間着はぼろぼろ、体のあちこちに泥や枯葉が付いて、美しさをすべて覆い隠していました。まったく、いばらが指摘したのは無理もありません。お屋敷の鏡で見たのとはまるで大違い、両者が同じ人物だと信じるほうが難しいありさまでした。ミラは怒って立ち上がりました。
「あたしはこんなに醜くないわよ!」
 そういって泉を睨みつけると、どこからか軽やかな笑い声が聞こえてきました。勢いよく振り返ると、木立からひとりの女が出てきました。
 女の静かな足取りは、女王然としていました。それもそのはず、彼女はこの森の主でした。ただし、人間ではありません。ゆらめく髪の先は煙と化して空気の中に溶け込んでいました。宝石が光るドレスの裾も、髪とおなじです。彼女が惑いの森の霧を作り出しているのでした。
「どうやってここに迷い込んできたのかしら」
 森の主はミラの隣に腰を下ろしました。その声は確かに、ミラが追ってきた不思議な声でした。
 ミラはこの女はよもや幽霊かと思い、恐ろしさになにも答えずにいると、女は気にするそぶりもなく、ひとりで話しはじめました。
「迷子の醜い子兎に、おはなしをしてあげるわ。……むかしむかし、この森には心臓がありました。心臓は森の魔法の源でした。ところが、悪い魔女がこの心臓を奪おうとやってきました。あまたの勇士が迷い力尽きたこの森を、魔女はすいすいと進んでゆきました。そして、とうとう、森の忠実なる番人のもとにたどり着きました。最初の番人はひきがえるでした。魔女はひきがえると歌で勝負し、わざと負けました。魔女はひきがえるを褒め称え、彼がいい気になっているところで走り抜けました。次の番人はいばらでした。魔女はいばらを炎で脅し、先に進みました。最後は鉄壁の守りを誇る、老獪な古木たちでした。魔女はこれらの木々に甘い水を与え、泣き落として自分を通させました。そして、魔女はこの泉にやってきました」
 ミラはいまでは、森の主の横顔をじっと見つめていました。女の瞳は霧に包まれたような、夢見る瞳でした。はた目にはどこに焦点を合わせているのか窺い知ることができませんでした。
「魔女は呪文を唱えて、泉に昼夜浮かんでいる月の影を、持ち運んできた鏡に閉じ込めました。すると、森は激しく動揺しました。魔女は長く留まれないことを知って駆け出しました。最初に騙されたことに気が付いた古木たちが立ちふさがりました。「惑いの森の心臓に懸けて!」魔女が叫んで鏡を掲げると、古木たちも通さずにはいられませんでした。次に、怒ったいばらが道を阻みました。「惑いの森の心臓に懸けて!」魔女はまた叫ぶと、いばらの中を一気に駆け抜けました。最後にうるさくわめき散らすひきがえるが邪魔をしました。「惑いの森の心臓に懸けて!」魔女は叫びましたが、ひきがえるの声にかき消されました。そこで魔女は鏡を掲げながら、ひきがえるを蹴飛ばすと、森の出口に向かって走りました。走るのが速い動物たちは懸命に追いかけましたが、魔女が炎を出したり、剣を出したりするので、なかなか近寄ることができませんでした。魔女は狼の牙を間一髪で逃れながら、ついに森から出ました。追ってきた森の住人達は、森の外までは追ってきませんでした。こうして、惑いの森は心臓を失いました」
「そんな大変な時に、あなたは何していたの?」
 森の主はミラの言葉が聞こえないのか、淡々と続けました。
「この話の教訓は、心臓は自分の体にしまっておけ、ってことね」
「なに言ってるのよ」
「私の心臓……」
 女はそう呟くと、あとはふっつり黙り込んでしまいました。まるで話の通じないこの女が急に怖くなって、ミラは後ずさりました。それでも、こちらに気づいたり、なにか声をかけたりする様子はありません。ミラは逃げ出しました。
 何度も後ろを振り返りながら小道を歩いていると、緑色の壁にぶつかりました。ミラを通してくれたあの木々の壁でした。ミラがぶつかった衝撃に木々は葉を揺らして、いいました。
「どうだ、やはり用などなかっただろう」
「それどころか、あの女、狂ってるわよ!」
「ああ。月の泉から心臓を奪われて以来、ああなってしまわれたのだ」
 木々の声には深い絶望がありました。ため息さえ聞こえてきそうでした。
「あたし、その心臓がどこにあるのか知ってるわよ。だって、その魔女はあたしのお母さまだもの。どうすればいいのかわからないけど、返してあげるわ」
「そうか」
 木々は、喜びと思い出した怒りに震えてざわつきました。ミラははじめて、その声が、何百本もの木々が完全に揃って発声していることに気が付きました。
「そうか。通るがいい」
 再び森が開き、ミラは木々のアーチを通り抜けました。
 ミラが、いばらのところまでやってくると、いばらが先に口をききました。
「あら、もう帰ってきたの。ねえ、あなた、これをどう思って?」
 ひとつだけ咲いたいばらの花の茎に、白いリボンが結ばれていました。それは、ミラの寝間着の破り取られた切れ端でした。
「器用なものね」
「そうなの! 意外でしょ。これ、あのひきがえるが結んでくれたのよ。粗野なひとだと思っていたけど、なかなか美学があると思わない?」
 ミラは片眉を吊りあげました。
「あなたにはこのリボンをもらったから、通してあげるわ。ひきがえるによろしく伝えておいてね」
 いばらがその体を上に差し伸べると、今度はばらのアーチが出来上がりました。ミラは通り過ぎざま、まだきれいなまま地面に落ちたばらの花を拾いました。
 いばらも過ぎて、ミラは歩きつづけました。けれど、しばらく歩くと、自分がどこにいるのか、どこに向かっているのか、さっぱりわからなくなってしまいました。ミラは座り込み、唯一この森で助けてくれそうな名を呼びました。
「助けて! ひきがえる、助けて!」
 しかし、ミラの声は森の中に消えるばかりで、なにものも動く気配はありません。ミラはそのうち叫ぶのにも疲れて、土の上にうずくまってしくしく泣き出しました。
「ここまで戻ってこれたのだな。やるではないか!」
 顔を上げると、目の前に見覚えのあるひきがえるが座っているではありませんか。ミラは嬉しさのあまり、ひきがえるを抱きしめました。
「苦しいぞ! ええい、やめんか!」
 ミラはひきがえるを放してやり、彼の前にちゃんと座りました。
「さっきはごめんなさい。あたし、ここを出たいのに、道がわからないのよ。だから、あなたに道案内をしてほしくって」
「ほほう」
 半目で疑わしそうに見上げるひきがえるに、ミラは拾ったばらの花を差し出しました。
「いばらが、あなたのこと、素敵だって言ってたわよ。美学があるとか。だから、ほら、これ」
 ひきがえるはその顔に満面の笑みを浮かべました。そして、ばらの花を心底大事そうに受け取りました。
「契約成立だ! 出口まで案内しよう」
 ひきがえるが驚くべき跳躍で進む後をついてゆくと、あっというまに森の出口に到着しました。もう日も暮れかかっていますが、懐かしいお屋敷も向こうに見えます。ミラはひきがえるに丁寧に礼を言って、握手を交わすと、我が家に向かって走り出しました。
 ミラがお屋敷の重々しい扉を開けると、玄関にいた召使たちはみな、驚きに動けなくなりました。大きく開いた扉から、真っ赤な夕日が射しこんで、ミラの頭の上に冠のように被さっていました。ミラは泉で見たよりももっと汚れていましたが、顔には生気あふれる美しさが宿っていました。それは、舞踏会でのミラも、ミラの母をも凌ぐ美しさでした。
「ただいま」
 ミラはなんてことはないように、そういってお屋敷に足を踏み入れました。召使たちは呪縛が解けて、侍女を呼ぶものや、タオルを取りに走るもの、ミラにしつこく質問するもので、大混乱でした。
 ミラは追いすがる召使たちをはねのけて、母親の部屋まで急ぎました。もちろん、召使たちはついてきて、しかもどんどん数が増えるので、廊下はパレードみたいな行列になりました。
 ミラが母親の部屋に入ると、召使たちは顔を見合わせ、入ってこようとはしませんでした。部屋はミラが開けた時から、開けたままになっていました。
 ミラが鏡を手に取ってよく眺めると、鏡の中には白い円形が浮かんでいました。これが、月の泉にあったという、月の影、森の心臓なのでしょう。ミラは鏡の中の自分を見て、驚きました。もう、魔女に似ているようには思えませんでした。鏡に映った自らが美しいことは認めましたが、おごり高ぶるわけでもなく、意外なほど冷静にそれを受け入れました。
 部屋の外でミラを呼ぶ声がしました。ミラが振り向くと、ラズワルドが息せき切って駆け付けたところでした。叔父はこの一日で、なんだかやつれて見えました。
 ラズワルドはミラを抱きしめました。その背中は頼りなげに震えていました。ミラは泣いているのかと思い、尋ねました。
「叔父さま、叔父さま、嬉しいの?」
「ちがうよ、ミラ。悲しいんだ」
 ミラは驚いて飛びずさりました。ゆっくりと身を起こしたラズワルドの顔はうつろでした。
「せっかく、私が鏡を所有できると思ったんだがなぁ……」
「叔父さまはこの鏡のこと、知ってたの!?」
「そうだよ。きみが魔女の娘だってことも知ってたし、姉さんがこの鏡を作って、作ったはいいけど惑いの森の影より外には持って出られないことも、お屋敷暮らしに嫌気がさしてきみの父さんを裏切ったことも、もちろんこの鏡の使い道だって知ってたさ」
 ラズワルドは喉の奥で笑いました。ミラは鏡をきつく抱えました。
「そう、使い道! 知ってたかい、ミラ。その鏡はね、命じたものの真実を映しだせるんだ。どれだけの貴族の秘密がその鏡で覗けると思う? 全部合わせて金貨何百枚分になるだろう。わからないな。すばらしい鏡だよ、まったく」
「真実はそんなふうに使うものじゃないわ!」
「そうかい? きみが真実の何を知っている? 鏡をのぞいてごらん、ミラ」
 ミラはいわれるまま、鏡をのぞきました。鏡に叔父を映すと、背が曲がって弱々しく、怯えた顔をしていました。
「なにが見えたかね、うん?」
「叔父さま……叔父さまに昔、恐いものがあるか聞いたことがあったわね。いま、わかったわ。叔父さまは、なにもかもが恐くてたまらないのよ! このあたしのことですら!」
 ラズワルドは驚いて目を剥きました。彼の顔から仮面がはがれおちたようでした。その目尻や口元には、これまでわからなかった小皺が見られました。彼の表情がすべて、真実を物語っていました。
 ミラも叔父の顔に現れた変化に驚いて、しきりに鏡を振り回しました。
「あのとき、叔父さまの恐いものを当てられたら、あたしのいうことを聞くっていったわよね。だから、出てって! もう二度とあたしの前に現れないで!」
 ミラが鏡でラズワルドを追いたてようと振り上げると、手が滑って鏡が落ちました。そのまま、鏡は割れて粉々になりました。
 ふたりとも呆然と鏡の破片を見つめていました。すると、外で低い音がしました。ミラは鋭い破片を気にも留めず、窓に駆け寄りました。
 惑いの森中の木々が震えていました。森の中では鳥や動物の鳴き声がはやし立てています。しばらくすると振動は収まり、森の上に月が姿を見せました。森の騒音の中でも、ひときわ大きい、ひきがえるの歌声がミラの耳にも届きました。ミラは思わず微笑みました。ついに、惑いの森に心臓が戻ったのです。
 それから、ミラはずっと住んでいたお屋敷で、たまに森の友達を訪ねたりしながら、今度こそ心から幸せに暮らしたそうです。彼女が誰と幸せになったかですって? それは、さあ、あたしの与り知るところではありません。

inserted by FC2 system