氷の魔女


 魔女が住むという城に青年がやってきたのは、日も沈もうとする夕暮れだった。

 この城に住む魔女は、かつて愛した男を独占欲のあまりに氷漬けにしたと噂されている。自身もその冷気で心が凍ってしまい、それからはじめじめした森にひとりぼっちで暮らしていると。一晩だけ泊まることを許された旅人が、凍りついた男の姿を目にしたのだという。
 青年はずっと馬を走らせていたのだろう、疲れた様子で馬をつなぐと、大事そうに鍵のついたチェストを抱えて城の扉を叩いた。しばらく待つとひとりの女が扉を開けた。城を模した玻璃の冠をかぶり、下着のような奇妙な布の上に前を開けたガウンのようで、王族のマントのように裾を長く引く上衣を羽織っている。
「旅人さん? なんの御用かしら」
 青年は城主らしき女の奇妙な格好に目が奪われていたが、澄んだ声を聞いて我に返った。
「あ、あなたにお願いがあるのです」
 女はあちこち枝や枯葉の絡まった旅人を一瞥するとふたたび口を開いた。
「そう。ついて来なさい」
 それだけ声をかけるとくるりと背を向け、城の中に入っていった。青年が慌てて追いかけると背後の扉は重々しい音を立てて閉まった。
 城に入ると、外とたいして変わらない冷やされた空気が鼻についた。長年、閉めきられたままのようで少しかび臭い。この城自体が凍っていたのではないかとすら思われた。
 中は十数歩ごとの感覚で壁の両脇にろうそくが置いてあるだけで暗く、懸命に城主の後を追わないとほの暗い迷路の中で永遠に出られなくなるかに思えた。廊下や部屋の様子はほぼうかがえないが、青年がそっと壁に手を走らせると濡れているように冷たい石を感じた。どうやら内部もむき出しの石を使っているらしい。ブーツの底からも床の冷気がじわりと這いよるようだ。中がこれだけ寒いとなると、どうやら氷の魔女の城に間違いはなさそうである。
 外見から広大な城かと思っていたが、さほど歩かぬうちに明るい光が見えてきた。洞窟から地上の光が見えたような気分で、青年はそっと安堵の息をついた。
「ここよ」
 女は振り返らずにそういうと、光の中へ入っていった。

 中へ入ると、そこは豪華な食卓のある広間だった。天井が高く、実際よりも広く見える。無数のろうそくやランプがきらめき、金糸で織られた絨毯に反射している。長い食卓はやはり玻璃で作られており、数々の料理が一方の端で湯気を立てている。青年は空腹を思い出し思わず唾がわくのを感じた。
「お疲れでしょう。どうぞ召し上がって」
 女はさっさともう片側の席についた。彼女の前に料理はなく、水の入った玻璃の杯があるだけだ。
「わたしはこれだけでいいのよ」
 青年のいぶかしげな視線に気づくと女はそういい、杯を傾けた。
 料理はどれもすばらしく美味で、王の食事といわれてもおかしくないようなものだった。青年は無心で食べ続け、最後のパンのかけらをあたたかな上等の葡萄酒で流し込むと、女が口を開いた。
「わたしはあなたがたの宝物に興味はないの。だけどここで一晩休みたいなら、あなたの旅の話を聞かせなさい。わたしにはそれが一番の宝なのです。あの宝箱の中身は何?」
 城主はまっすぐに青年の足元に置かれたチェストを指さした。彼は立ち上がり、チェストを女のもとへ持って行った。
「これこそが、ぼくのお願いしたいことなのです。どうぞ開けてください」
 女が旅人を見やると、彼の眼は決意にうるんでただただ女を見返すばかり。女はチェストを膝の上に引き上げた。鍵はかかっておらず、そのまま蓋を開けた。
 中にはまだ十代を抜けきらないとおぼしき少女がうずくまっていた。やわらかな蜂蜜色の髪を広げ深く眠っているように見えるが、胸は動かない。女は驚いた様子で蓋を開けたまま押し黙った。顔は仮面のようにぴくりともしない。
「ああ、ムーミア!」
 青年がわっと泣き伏した。女は青年に構わず少女の顔に手を滑らせた。その肌は城の壁のように冷たく硬い。ゆるくにぎった手に触れ、手首を押さえる。やはり脈はないが、ふたつ並んだ赤く鋭い点を探り当てた。
「ヘビにかまれたのね」
「そうなのです」
 青年は涙をぬぐいもせずに顔を上げた。
「ぼくたちは春には村で結婚式をあげる予定でした。婚約者だったのです。
 あの日、ぼくは羊の様子がおかしいことに気がついて、彼女を呼びました。ムーミアは薬師の家の生まれなのです。どうも放っておくとまずい病気だというので、彼女は急いで切らしていた薬草を取りに出かけました。ぼくも着いて行くといったのですが、断られてしまいました。薬師たちはみな、薬草の生えている場所をだれにも教えたがらないのです。ぼくたちの仲だからいいじゃないかといったのですが、だめの一点張りでどうしても譲りませんでした。
 結局、西の森に行くとだけいって、彼女は行ってしまいました。日が傾いても戻らないので、ぼくは不安になって彼女を探しに西の森へ行きました。さんざん歩き回って辺りがうす暗くなってきたころ、森の奥で倒れている彼女を見つけたのです」
 いきさつを吐き出すと青年はまた崩れ落ちた。嗚咽で息を詰まらせながら女に迫る。
「氷の魔女様、お願いです。ムーミアを凍らせてください!」
 魔女は今度ばかりは片眉を吊り上げた。
「あなたはかつて恋人を凍らせたと聞きました。ぼくが永遠に彼女を忘れないように、彼女に見守ってもらえるように、ムーミアを凍らせてほしいのです」
「氷はいずれ溶けるわ」
 魔女がそっけなくつぶやくと、青年の顔が絶望に歪んだ。
「できないというのですか?」
「ええ」
「でも……そんな!」
 青年は縋り付く勢いで、魔女によく見せようと恋人の体を持ち上げた。ムーミアの体はまるで陶器人形のように固く動かぬまま宙に掲げられた。すると、体の下になっていたポシェットが部屋の光を浴びた。魔女はそちらに興味をひかれて手に取った。
「これ、見てもいいかしら」
「は、はい」
 困惑した青年が見守るなか、魔女はボシェットの中を探り、ひとつの箱を取り出した。片手のひらに収まるほどの大きさで、ハート型の小さな錠が付いている。
「なんでしょう」
「それは、若い娘たちに流行っている秘密の小箱ですよ。年頃の娘はみんな持っています。ぼくが祭りのときに贈ったんです」
 魔女はまた涙をこぼす青年に見向きもせずに、箱を傾けたりして首をかしげている。
「開けてみてはいけない?」
「無理ですよ。鍵がないんです。探してみたのですけど、見つかりませんでした」
 魔女が錠に触れて何ごとか囁くと、錠はカチリと音を立てて開いた。
「鍵がないのに。やはりあなたは魔女ではないですか!」
「それとこれとは別よ」
 魔女はそう答えると中のものを取り出した。その手にはなにやら茶色い液体の入った小さな瓶をつまんでいる。
「なんでしょう。きっと薬でしょうが、その箱に入れて持ち運ぶようなものは思い当たりませんね」
 青年が首をひねる。
「中を確かめてもいい?」
 青年がためらいがちに頷くと、魔女はコルクの栓を引き抜いた。生臭い臭いが鼻を刺す。魔女は舌の上に液体を一滴垂らした。そのまま目をつむって味わう。
「これは、ヘビの血ね」
「ヘビの血って……! 薬ではないのですか?」
「薬にもなるわ」
 魔女は小瓶を青年に手渡した。
「薬の原料にね。不安なら本職の薬師に聞いてみなさい。きっとあなたの羊に必要な薬はこれで作られていたのよ。見られたくないでしょうね、ヘビを殺して血を抜いているところなんて」
 魔女は親しげに青年の肩に手をやると、ほんの少しだけ口の端を微笑させてムーミアを見やった。
「さて、これであなたは彼女の秘密を知ってしまったわね。彼女の死んでいた場所に薬の原料があることも、薬がなにから取れるのかも。あなたが彼女を忘れないためにできることは、凍らせることなんかじゃないでしょう。彼女の秘密をあなたのものにしておきなさい」
 青年はゆっくりと顔を上げて魔女を見つめた。
「たしかにあなたは心を凍らせた魔女なんかじゃない。そのような親切な言葉をかけてくれるのですから。ぼく、これからは羊たちの世話をしながら薬師の勉強もしようと思います。ムーミアの代わりにはなれないけど、ムーミアがいたことを忘れないためにも」
 勢いよく立ち上がり、城を出ようとする青年を城主は押しとどめた。
「もう日は落ちているのよ。一晩泊まっていけばいいわ」

 城主に案内された部屋は、小さいながらも小奇麗で整えてあった。広間と比べると質素だが、調度品が質の良いもので出来ているのがわかる。部屋には暖炉がしつらえられ、廊下とは比べ物にならぬほど暖かく乾いていて心地よい。ベッドに腰掛けるとやわらかな良い香りが漂った。青年は疲れていたこともあり、ぐっすりと眠りに沈み込んだ。
 青年が目を覚ますと、外はぼんやりと明らんでいた。なぜこんなに早く目覚めたのかと疑問に思うと、廊下からコツコツという音が聞こえてくることに気が付いた。魔女のブーツの音だ。足音が遠ざかると、青年は部屋の扉を音を立てぬように開けた。冷たく湿った空気が部屋に流れ込む。廊下はまだ暗く、遠くに明かりが揺れている。きっと魔女のランプだろう。青年は部屋に戻るとランプを手に取った。磨かれて新しい油も注いである。暖炉の燻る火をランプに移すと、青年は足を忍ばせて先を行く明かりを追った。
 長い廊下が終わり、魔女は角を右に曲がった。これまで背後から追う青年に気が付く様子はない。脇目も振らずに歩いているようだ。青年は急いで魔女の曲がった角まで足を進めた。ランプを上着で隠し、そっと覗きこむ。さっきまで前にあったはずの明かりが見えないので、こんどはランプを顔の近くでかざす。やはり見当たらない。どこか部屋に入ったのだろう。まず、手前にあった部屋の前に立ってみた。青年がどうやって部屋を確かめようかと考えていると、廊下の奥のほうからかすかな物音が聞こえた。ランプを隠して慎重に歩いてゆく。今度は会話のような声が聞こえてきた。廊下の端の部屋は戸がなく、よく見るとほのかに明かりが漏れている。青年は端の部屋まで来るとランプの灯を消して、そっと覗きこんだ。
「今日は珍しい客が来たのよ。恋人を凍らせてくれだって。おかしいわね」
 部屋は外に向かっている一面だけに大きな窓が取り付けられていた。ほかの壁はすべて本棚になっていて、部屋中のあちこちに本が散乱している。古くくすんだ本ばかりだ。魔女はこちらに背を向けすこし屈んだ姿勢でなにかに話しかけているようだった。
「なんであなたが彼女に恋したのか、わからないわ」
 魔女がすこし体を揺らすと彼女の話しかけているものが見えた。外の淡い光を受けて輝くそれは、巨大な氷だった。中に仰向けで横たわる男の姿が見える。青年は思わずランプを取り落した。
 甲高い落下音に魔女は振り向いた。平静としてやはり仮面のような無表情でいる。
「いたのね」
「ご、ごめんなさい、あの……」
「いいのよ。こちらに来なさい」
魔女が手招きする。青年は恐ろしくて足がすくむ思いだったが、魔法にかけられたように魔女のほうへ近づいていった。
「よく見て頂戴」
 ぐいと青年の頭を氷のほうへと近づけた。そうして氷の上のほうを持ちあげた。
 魔女が蓋を開ける。青年は驚いて氷をぺたぺた触った。冷たいが、氷ほどではない。それは巨大な氷ではなく玻璃でできた棺だった。
「わかったでしょう」
 魔女は中の若い男の頬を愛おしそうといってもよい優しさで撫でた。男は何本もの青白く光る不思議な百合の花に囲まれ、微笑んで眠っているように見えた。その顔は美しく整っていて、なにか人ならざる恐ろしい妖艶さを含んでいた。見つめる青年はうなじが逆立つのを感じた。
「あなたの恋人ですか?」
「ちがうわ。わたしの兄みたいなものよ」
 青年はまじまじと魔女の横顔を見つめた。改めて見ると、まるでいままで見たことが無かったかのようだった。たしかに、魔女の顔にもどこか人間離れした雰囲気がある。男ほど異質な印象は受けないが、似ているといわれればそうかもしれない。
「あなたたちはここを城だというけれど、ここは彼のための霊廟。そしてわたしはただの墓守にすぎない」
 女は男の胸から一輪の百合をのけた。胸には石の破片が深々と刺さっていた。
「氷の魔女も、魔女が凍らせた恋人も、ぜんぶ勝手な空想よ。
 ……彼の話をしましょうか。彼は強力な魔術師だった。だけど傲慢で気分屋で、好き勝手に暮らしていたわ。あるとき、彼はひとりの娘と友人になった。恋人にはならなかったけれど、とても気が合う友人だったそうよ。だけどしばらく経ってから、彼は生来の気まぐれを起こして彼女の宝を奪い、塔の上から突き落とした。
 運よく命が助かった娘は復讐に燃えた。とうとう仲間と彼を捕まえて中から破れない地下の牢獄に閉じ込めた。彼はまさか娘にしてやられると思っていなかったのでとても驚愕した。彼はそれを惚れた、と解釈したわ。
 それから長い年月が経って、わたしが彼を解放した。わたしの目的に彼が必要だったの。彼はまだ彼女に恋焦がれていた……彼女はとっくに死んでいただろうに。ところがそうじゃなかったの。
 彼は旅の終わりに、ついに娘を見つけた。なんと娘は若いままだった。でも石像になっていた。なんでも遠い昔に若い娘が石にされたと伝承が伝えられていたわ。わたしにはそれが本当に娘本人だったのか、わからない。ただそれから、彼が呪いを解こうと石像にくちづけると、石像はバラバラに砕けて、彼の胸に突き刺さった。あんなに長い時を生きてきたのに、彼は死んだ」
 墓守は不思議な物語を語り終わるとため息をついた。重い荷物を降ろしたあとのような疲れたため息だった。青年はおずおずと棺を覗き込んだ。
「その石を抜いたらどうなるのですか」
「さあ。抜けないの。でもどうやら彼は朽ちないし、万が一生き返ることもあるかもしれない。だからわたしはここで彼のこと、彼が生きていた世界のことを覚えていてあげているのよ」
 ふたりの間にしばし沈黙が流れた。
「あなたもきっと長命なのでしょうね」
「きっと。愛する人の石像にくちづけしないかぎりは、多分」
 青年は改まって墓守に向き直った。
「では、ムーミアのことも覚えていてもらえませんか。ぼくたちを知る人が、皆いなくなった後でも」
 墓守はゆっくりと微笑んだ。
「ええ、もちろんよ。あなたもムーミアのことを忘れないで。そしてできれば」
 玻璃の窓から朝日の最初の光線が、木々の手からこぼれ出して射しこみ、玻璃の冠が光を受けて輝いた。青年は眩しさに目を細めた。
「彼のことも覚えていて」
 ふたりは流れ込む朝日を見つめ続けた。今日の朝を永遠に記憶に焼きつけようとするかのように。

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